[コメント] 誰も知らない(2004/日)
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2004年のカンヌにおいて主演男優賞を受賞した柳楽優弥について、審査委員長のタランティーノは顔が印象的だったとコメントした。
確かに彼をはじめとした子供たちの顔、とりわけときどき挿入されるアップのカットが忘れがたい印象を残す。そのときにふと思い当たったのがジョン・カサヴェデスである。
監督是枝裕和は即興の手法を用いる。がちがちにセリフや空気を決め込んだうえで作品づくりをしていくのではなく、その場その場の雰囲気を重視し、論理的に構築された部分からはみ出てしまうものをできるだけ捕捉しようとする。それはカサヴェデスのやり方と重なる部分が多い。とりわけ『フェイシズ』を思い出す。
ただ、是枝とカサヴェデスでは決定的に異なる部分がある。本作において、シーンの中の一つ一つのカットは即興によって得られた空気や表情を丹念に集めたものであるが、そのシーンとシーンの間を結びつけるシーンを意図的に省略している。例えば、それは母親不在による寂しさのあまり下の子たちが泣き出すシーンや、それまであって当然だった電気・ガス・水道が止められ冷蔵庫や台所器具やトイレなどが使用不能になった際の兄弟の反応を映し出すシーンや、一人を失った瞬間の各自の反応を映し出すシーン、これらもっともエモーショナルな部分のシーンがすっぽり抜けてしまっている。カサヴェデス作品に置きかえるなら(彼の作品設定では考えにくい状況であるかもしれないが…)、即興による腕の一番の見せ所になりうる部分が消滅している。
とはいっても、過去の是枝作品においても、エモーショナルな部分は極力省略されているし、それは映画の技法としてはとりわけ珍しいことでもない。また、明らかに除かれていることがわかっているだけに、観る側のほうで省略されたそれらのシーンを想像することはさほど難しい作業ではない。
だがしかし、即興の演技をもって、そのもっともエモーショナルな部分をスクリーン上で見せられていたら、きっと本作の印象は変わっていたにちがいない。それは本作をお涙頂戴の作品に堕していた可能性もあるが、そこはあの兄弟たちが生活をしていく本作の中心を占めた部分も含めあらゆる側面を映し出したり、たとえエモーショナルなシーンであっても何を映すのかこだわっていけば、どうにでも回避できたのではないのかとも思える。何のためにそこをばっさり切ったのか、どうしても気になるが明確な回答が浮かばない。ゆえに、「逃げている」という指弾に近い評価があったとしても、そうした低評価が一概に間違っているとも思えない。
たぶんに屁理屈っぽいことを書き連ねてしまったが、本作においてもっとも印象的だったのは、買い物に行く際に何度も映し出されたアスファルトの延長線上にあるあの階段。あの子たちがいつか大人になって、自分の幼少時や死んでいった兄弟姉妹に思いを馳せた際、頭に甦ってくるのはきっとあの階段だと思う。
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