[コメント] パッチギ!(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ガキ帝国で未整理のまま、井筒さんは自身の内部に巣食う何かを出したと思うんですよ。 イライラを。 川底のヘドロを無理やり掻き出したみたいに。 だから、より多くの観客を楽しませる商品としての立ち居地をガキ帝国は確立できなかった。
で、15年たっての岸和田少年愚連隊。
時代も変わって、生のままの”イライラ”はより受け入れがたくなっていたと思われる96年に、今度はそれを綺麗な結晶に昇華させて見せた。 いろいろ、実験を重ねた挙句に、たまたま81年のヘドロがキュービックジルコニアになったみたいなw そんな感じではありましたが、物語としてはほぼ何も提示していないにも関わらず、岸和田少年愚連隊は全てを言い切ったみたいな清廉な傑作だった。 それは意味を持たない結晶で、意味を持たないからこそ娯楽足りえた。だから受けた。
そして、さらに10年。
彼は、この実験をまた前に進める。 ヘドロの正体は在日という存在。 誰もが解っていたにもかかわらず、今まで黙示的にしか提示されていないそのヘドロを、企画の中心に言語化して提示する事で、結晶に”意味”を持たせようという試み。 井筒さんの中で、在日という存在が内部の問題なのか、対面すべき(またはしている)外部なのか私は知らない。 でも、20年かけても言語化しなきゃならない。 または、言語化するのに20年も逡巡が必要だった。 のっぴきならない問題だったのだと思う。
そして始まるいつもの井筒劇場。 毎度毎度ホントしょーもないwしょーもなすぎるww 笑うに笑えない駄目な生き物達の記録が高回転でドライブしていく。 しかし、今回は一方でドドンと真ん中に座る在日問題がブレーキとなり、その加速の足を引っ張る。 アホジェネレーターがレッドゾーンに入らない。 (どうするんだ!井筒!) 笹野高史が、在日モチーフの映画が必ず通らなければならない日韓近代史の暗部を声高に叫ぶに至って、最早、失速は免れんな・・・とこちらが思った瞬間!
井筒さんは、急にここをテクニックで乗り切ろうとするんですよ。それこそ小手先のといわれかねないテクニックで。 塩谷瞬の歌うイムジン河。並べられる登場人物たちの必死な顔。それぞれのシークエンスを並べたとて、明確な論旨の構築はない。 なのに、高揚感がそれを凌駕する。歌が、顔が全てを凌駕する。
皆さん承知のとおり、のど自慢、ゲロッパ!がここへの複線になるわけです。 歌は、歌詞として一端の文脈を提示しているにもかかわらず、解釈は個人の内部にあり、共通ではない。 しかし、歌は一様に人々をつないでいく。 歌の核心は意味ではないから。
井筒和幸は歌を知っている。
そして映画も同じ。
映画としての純度を犠牲にしても、観客に解らせたい事があった。 そう云うことじゃないでしょうか?
その力技に、劇中の登場人物たちと同じ本気を見ました。
心が動きました。お見事
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