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[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)

正しく教わり、正しく教える。正しく教え、正しく教わる。ただそれだけのことになぜこうも心を動かされるのか。今日その理由は明白。しかしその「正しさ」が一瞬揺らぐとき、全ての「正しさ」の意味が失われ、人は選択を迫られる。そして、これまでも「正しかった」のか。その「一瞬」のあまりの重さ。あまりに重くてゲンナリするが、覚悟の上で「真の正しさ」を追求するのが人生だとE親父に諭されたらグウの音も出ない。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







反則技を連発する「青い熊ビリー」とのタイトル戦で、フランキー(イーストウッド)がマギー(スワンク)に指示する。「尻の付け根を打て。座骨神経を痛めつけろ」と。

これが「反則」であることをマギーは認識していて「反則よ」と警告するが、フランキーは「審判と相手の間に入れ」と畳みかける。

この「反則」が効を奏する。形勢が逆転する。フランキーの「してやったり」の表情のアップカットが一瞬挿入される。

この表情が会心の演技で、ここだけ抽出すると、まるでイーストウッドに見えないほど下品である。このカットで、「ああ、この人はここで誤った」と感じる。天を仰ぎたい気持ちになる。さりげないが、ここが決定打だとはっきり分かる。こういうカットに匠の業が宿る。観る人が観れば「あざとい」というだろう。しかしこれは簡単に真似できることではない。

病院に搬送されたマギーとヒゲを生やしたフランキーとの会話。数日の時間が経過している。

「ヒゲを生やしてるの?」 「女にモテるからな」 「似合わないわよ」

この「間(ま)」が巧すぎて悲鳴が出そう。台詞の多層性の機微。

全編に渡って巧く、緻密で、言いたいこともよく分かる。ラストの「看取り方」も必然性がある。フリーマンとの憎まれ口の叩き合いとスワンクとの交歓の機微が渋すぎて深すぎて(しかもユーモア全開)いつまでも観ていたかった、そのまま後半はロッキーに着地すりゃいいじゃんとする向きがあったとしても、それは巧さによってそう思わせるのだから仕方ないというしかない。でもその巧さが厭らしい気がするし、試合シーンが何だか納得がいかない、「結論を出すのはお前だ」という創作姿勢は一種卑怯、フリーマンちょっとだけ喋りすぎだと言われると、それも当を得ていると思うので何とも複雑な気分になる作品である。

ところで他作のネタバレですが、「一瞬」と言えば、『チェンジリング』にも路面電車のシークエンスがあったし、『グラントリノ』ではチンピラに銃口を向けるシークエンスがありましたよね。イーストウッドは現在進行形で『グラントリノ』から逆走して観ているので滅多なことは言えないのですが、一瞬の過ちからのドラマ変調(運命の変転)というのはイーストウッドの得意技(作家性)なのでしょうか。それはまさか「早撃ち」をルーツにしてたりするものなのでしょうか。あんまり穿った見方をしても意味がないのですが、ちょっと気になるところです。

どうでもいいことですが、フットワークの訓練を家にも「職場」にも持ち込むシーンで『Shall We Dance?』が想起されて笑ってしまいました。「無愛想」がフェイクで愉しい親父なんだということは言い加減分かってきました。こういう親父はいろんなところで得するんですよね。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)pori[*] jollyjoker[*] 赤い戦車[*] けにろん[*]

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