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[コメント] 醜聞(1950/日)

志村演じる弁護士は誠実に描かれているが、作品が取り上げた問題に対して全く責任を持って描こうとしていないような不誠実さ満載。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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裁判の後の取材で青江が呟く「僕らは星が生まれるのを見たんだ。それに比べたら、勝利なんてちっぽけなものだ」という台詞に端的に表れているように、当初はプライバシーの侵害と報道の自由という対立軸を描いていた物語は、完全に蛭田弁護士の更生の過程を追う事に収斂してしまった。

青江はモデルの女に、日本人と裸体画の関係について語り、肉体の均整がどうとかいう以前に、日本人には裸体を誇示する精神が欠けている、と言っていた。そして彼が裁判の結審の日に裁判長に向かって言ったのは、「僕らは、僕らが正しい事を知っていたから、素のままで裁判に臨んだのです。もう僕らの身の潔白を証明するものは有りません。僕と、彼女(=西条)の顔だけです。これが嘘をつく人間の顔に見えますか」。つまり、在りのままの裸の自分達を見てくれ、と。

これに対して被告側代理人の弁護士の言う「裁判というものについて誤解をされているようだ。被告もまた自分が正しいと思っているから法廷に立ったのです」という言葉はまさにその通りで、如何に客観的な証拠なり論拠なりを公に示すか、というのが、本来の裁判劇というもの。それが、蛭田が自ら、被告に買収されていた事を告白する、という改心で裁判そのものも決着してしまう。つまりは、最初から誰が悪者なのかは制作者側は疑問を持っておらず、単純な善悪二元論に立って、あとは病弱な娘を抱えた中年男の人情劇に持っていってしまう、という、甘々な展開。

週刊誌による無責任なスキャンダル報道は勿論、その後の裁判をも面白可笑しい見出しで伝えた新聞、それを読む大衆など、その辺の問題は掘り下げなくて良かったのか。また、僕は青江と西条が共闘する中で本当に恋仲になるのではないかと思って、内心スリルを感じていたのだけど、そういう方向にも行かず。二人の出逢いの時に描いていた絵を青江が売り物にしなかった事、「何か特別な思い出がある筈」といった台詞等、そうした展開を匂わせる伏線が有ったにも関らず、途中で投げ出したような印象を受ける。

もしそうした展開になれば、週刊誌の報道は「恋の始まり」という意味では必ずしも誤報ではなくなり、そうすると問われるべきは、充分な裏付けも無く報道した事なのか、それとも、個人の生活に関る事を報道したのが悪いのか、しかしそうすると「事実無根」と主張して訴えていた青江らの立場はどうなるのか、など、問題の複雑さがより浮き彫りになったように思うのだが。

また、原告側の証人としてやって来る田舎の爺さま達の振る舞いの描き方を見ると、黒澤という人は、庶民の味方のようでいて実はどこかバカにしてないかと思えてもくる。これは『生きる』などでも感じた違和感であり、図らずもプレ『生きる』と化した観のあるこの作品で既にその兆候が表れている。

勿論、画作りや役者の演技などは秀逸なのだが(中でも蛭田が娘の枕元で涙ながらに心情を吐露する場面の発散する志村パワー…!)、取り上げた主題への追及を途中で放棄して明後日の方向にエネルギーを注いでしまった観のあるこの作品の不誠実さが、どうも好きになれない。

(評価:★2)

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