[コメント] 夏の嵐(1954/伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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あの二人が出会ったのがヴェネツィアでなかったら、もしそうでなかったら、二人は恋に落ちただろうか。揺らめく水面、だれもいない石畳の道、「ついてこないで」と言いながら、そこに響く靴音。揺らぐ女心(はじめからその気マンマンのようにも見える)。彼女が生きるイタリア統一戦争、その激動に最後まで残された土地、ヴェネツィア。そのヴェネツィアでのそれこそオペラの主人公よろしく大恋愛。
ピチピチした若い売春婦と対峙する伯爵夫人。かつては両者がおなじテーブルにつくなんてことはあり得ないことだったのだろう。その女に比べるとどう見てもくたびれている夫人。身分もない新しい時代では、夫人もおなじ売春婦の一種だ、そう罵るフランツ。出ていく夫人。密告の際、夫人は自らを「ヴェネツィア人」と名乗った。恋のために裏切ったイタリアと共に生きようとはしない、滅びゆく時代と共に生きる女。きっとバカだと自覚しているのだろうけど、わざわざそこをゆく。それが貴族の誇りってやつなのか?それとも女の意地か? どっちにしろバカな女だ。
そしてフランツ。はじめはヒラヒラのマントが似合う自信に満ちた男だったのに。夫人の棲む世界にあわせてペラペラペラペラ大げさな文句をとばすことができるような器用な男だったのに。彼女の与えたアンティーク、貴族がはぐくんできたその文化伝統、すごい装飾のその一つひとつに貴族たちの誇りがにじんでいるはず。もうきっと二度と制作され得ないだろうそれらの宝飾品、そこに潜む絶望までもを与えられてしまったのかもしれない。除隊したのち、絶望に包まれてしまった自分に気付き、そんな自分にした彼女を恨む。ちょっとした遊びですますには彼女(と彼女の背負う世界)は重すぎたのかもしれない。
「こんな男女、あり得ない。こんな恋愛、古くさい。」まったくもってその通りだと思う。だいたいにして、ビスコンティの描く世界から過去への郷愁をかき立てられる人なんかほとんどいないだろうと思う(本物の貴族、という方は感じるんですかね?シラスマサコとかさ)。だから私にとって貴族のお話はほとんどすべておとぎばなしだ。最後に残されたおとぎ話の世界での、最後のおとぎ話。すべてのリヴィアにまつわる物たちが「最後」を色濃く感じさせる。その長い間に培ったギトギトした情念、それらが確かなリアリズムによって描写された背景によってより「大時代」「古くさい」を強調され、貴族の時代と共にその恋も終わるだろうということを予感させる作り。見事だと思う。
この物語の原題“senso”は、英語で“sense”、日本語の“感覚”にあたるのだろう(いろんな本によると原題は「官能」と訳されているけれどもあえて無視する)。この原題の示す“感覚”はその絶望を感じ取る能力なのだろうか。滅びゆく時代、その絶望にとりつかれ、死に往くものども。
ビスコンティの映画たちには(おそらくわざとなんだろうけど)ヨーロッパ人必須だと思われるキリスト教色がほとんどない。むかし社会主義者だったからなのかね。そういうのがこの映画みたいに貴族階級が主役の時は「いけない雰囲気」作りに貢献していると思う。そして宗教による救済をあらかじめ塞いであるから、どうしたって行く道が限られてくる。私は大変に性格が悪いので、そこのところの足掻きを見ているのがとても楽しい。観ている間に彼らの絶望等々も入り込んでくるかもしれない。それでも観続ける。悪魔的魅力ってやつだ。だから怖いよ、ビスコンティは。
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