[コメント] 乱(1985/日)
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クロサワ全盛期に拮抗できているのは山田五十鈴の役処の原田美枝子と加東大介の井川比佐志ぐらいだ。いつもは魅力的な根津甚八などクロサワの世界ではヘロヘロに見える(ヘロヘロな役処ではあるが)。ピーターは頑張っているが、いっぱいいっぱいで観ていて痛々しい。三井弘次ならこの道化を余裕で演じただろう。
クロサワ映画随一のたおやめぶりである香川京子の代替は宮崎美子だが、彼女を殆ど正面から捉えないキャメラは、まるで嘆息をついている具合だ。無論宮崎はいい役者だ。しかしクロサワ映画には全然ハマっていない。香川の卓越した二枚腰の造形が必要だった。
発声の技量からして各俳優ばらつきがあり、音として聞いたときの美しさがない(例えば植木等は発声が上手過ぎて、彼が登場すると他の俳優が一気に霞む。こういうのは音声の技術で調整できなかったのだろうか)。クロサワ本人もこれら事態を察知したのだと思う。もう時代劇の様式美大作など撮れる時代ではないのだ。本作では印象皆無の寺尾聡が『夢』では持ち味を発揮しているのを見ればそれは明白だろう。
作劇も平凡。シェークスピア劇の魅力である煌びやかな科白の応酬は「人はいつも同じ道ばかり辿っている」などのピーターの機知に残ってはいるが、オリヴィエらの科白の徹底には及ばないし、『蜘蛛巣城』のような冷徹な沈黙に至る作品でもない。仲代達矢の造形は政治家の云い訳半分な自伝好みで退屈、反省できる知性があるならもっと若いうちにしろと思うばかり。
撮影は望遠・マルチの編集が細かいキャメラが全盛期を彷彿とさせていい。原田と根津の対決の件はさすがの力量(原田の最期は予告編と本編とではアングルが違う。「予告編とは全然違うんだぜ」と公開当時クロサワファンの連れが興奮していたのが懐かしく思い出される)。一方、何でこんなという場面も多く、茂みから銃が撃たれて人が落馬するのを単調に延々繰り返すクライマックスの決戦など阿呆らしいレベル。それから、後期に共通したことだが引きのキャメラが多く、顔を名前を一致させるという観客への親切は放棄されている。俳優単位での魅力欠如はここから来るものもあるだろう。
宮崎は死んでうつ伏せになっているカットだけのためにスケジュールを押さえられた。そんなもん、誰でもいいじゃないかとオールナイト・ニッポンでビートたけしが畏敬混じりのニュアンスでネタにしていたのが思い出される。当時たけしは『哀しい気分でジョーク』の時代。隔世の感がある。
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