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[コメント] 機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛(2006/日)

重力に魂引かれた古い80年代人よ。俺の話を聞いてくれ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 コメント欄は80〜90年代に放映されたアニメから取らせてもらった。今回は徹底的に恥を書かせていただこう。

 2005年から始まった“新訳Zガンダム”の第3部にして最終作。

 Zガンダムという名前は80年代、特に「ガンダム世代」と呼ばれるオタク世代にとっては特別な思いを抱かせる名称だ。

 「機動戦士ガンダム」によって、ヤマト世代と区別し、第2世代と呼ばれるオタク世代が登場した。ガンダムは一種の社会現象ともなり、その結果、一気にアニメファンが増えたのだが、そのブームは数年を経ずして沈静化していった。現代のようなメディアミックス戦略も稚拙な頃だったし、予想を超えるヒットに一番戸惑ったのが作り手の側だったため、それを伸ばす戦略が無かったから無理もない。

 このブームを何とか伸ばそうとする場合、二つの方法があった。一つはヒットした作品をブランド化し、その関連商品をどんどん出すこと。これはバンダイが一番儲かった(版権をバンダイに売ってしまったブルマアクが一番の損だった)。しかしそれ以外ではせいぜいアニメ誌を賑わせたり、食玩を多少売ったりする程度で終わった。もう一つの方法は、それを超えるヒットを目指して新しいアニメを次々投入する方法で、むしろ当時はこちらの方に力を入れていた。ただし、さすがにそれには限界があった。ガンダムの亜流をどんどん作るだけに過ぎないと分かった視聴者が次々と去っていってしまったのだ(もちろんそれぞれにいろいろ違いがあり、それぞれに固有のファンを作ってはきたし、今に至るも『聖戦士ダンバイン』から「リーンの翼」が、『重戦機エルガイム』から「ファイブスター物語」が生まれたように、今も展開中の話だってあるが)。結果として、『ガンダム』によって始まったロボットアニメブームは最終的に世間的な認知を受けることなく、先細りとなってしまう。それに伴い、雨後のタケノコのように出版されたアニメ誌も次々に廃刊となっていく。

 土曜日の午後5時は半アニメファンにとっては「聖域」とまで言われたものだが、結果的にそれはコアなファンを振るい残すだけの役割しか果たさなかった訳だ…言うまでもないが、私はその振るいで残った側だが。

 そんな中で投入されたのが『機動戦士Zガンダム』だったのだ。これは徐々に落ちていくアニメに対するテコ入れのためのサンライズの賭けとも、最終的に原点である『ガンダム』に頼るしか無かったとも言える。かつてブームに乗っていた人を呼び戻そうという意味も含まれていたと思われる(もう一つ某プラモデルメーカーの横槍もあるが、これは触れない)。

 だが、これには大きな問題があった。

 一つには、原点に戻らねばならない状況に追い込まれたという事は、アニメーションにこれまでに発展がみられなかったということに他ならず、ガンダム以上のものを生めなかった事に対する総括となってしまった事。実は本作こそが80年代アニメの鎮魂歌になってしまったのだ。

 そしてもう一つの問題として、ガンダムを生み出した張本人富野悠由季がすっかりやる気を失ってしまっていたという点がある。確かに富野監督はガンダムを生み出してはいたが、それに対する思い入れは低かった。事実小説版「機動戦士ガンダム」では主人公アムロを殺してさえいる。つまり、既にやる気を失っていたのだ。その富野監督を引っ張り出さねばならなかった状況が最大の問題となった。

 流石長年アニメの第一戦で働いていたプロだけに、仕事はきっちりと受けはしたのだが、富野監督はこの作品に相当の悪意をぶつけた。主人公カミーユに当時の現代青年のバイタリティを持たせ、精神的に徹底的に追い込む事でどんどん心を壊していった。今回の劇場版にあたるテレビシリーズでは、近親者を目の前で殺されまくり、更に恋人を手にかけるに至り、精神は崩壊していき、後半に到るとカミーユはほとんど戦闘マシーンと化していった(強かったのは確かだから)。ラスト近くになると身近な人の死にも「関係ない」と背を向けるような描写がされていた。富野監督の主張によると、「アニメばっかり観ていると、いつかこんな風になってしまうよ」と言うことをということだったらしい。つまり、監督の頭では、これは売るつもりはなかった。むしろこれを否定してほしい。と言う願いがあったのだろう。

 で、ここまで監督から見放された作品ながら、それで私はどうだったか?といわれると…

 どっぷりと当時のアニメブームに漬かっていた身として、これを否定すること自体念頭になかった。大前提として「これは良い作品」というのがあって、それを覆そうなど考えもしなかったのだ。“元”ガンダムファンが次々と脱落する中、この物語のどこが良いのか、必死になって周囲の友人に説明していたものだ。無茶苦茶で複雑な物語を頭の中で再構成し、どこかに褒めるべき部分を探りだしてそれを主張する。これはこれで楽しかったなあ…今から思うと、私の映画評とはこの時代に培われていたのかもしれないな。

 それで本作終了と共に、多分私はアニメを観るという行為そのものに疲れ切ってしまった。『Zガンダム』以降はアニメを集中して観ようという気力失ってしまったように思える。あれだけ一生懸命観ていた本作を、その後全部否定し、アニメそのものを積極的に観るのも止めてしまった。私にとって、本作は一つの時代を終わらせた作品でもあったのだ。

 本作の映画化の話は実はかなり前から、それこそTV版放映時代から語られていた。はまっていた私は数少なくなったアニメ好きの友人と、これをどうやったら面白くできるかを話し合ったのみならず、実はバンダイにシナリオプロットを同封した手紙を送ったりもしいたのである(なんでサンライズでなくバンダイだったかは、単に手元に住所があったからというだけの理由)。恥ずかしい私の過去である…これを馬鹿らしいと思えたからこそアニメを止める機になったのだろう。

 それが実に20年を経てついに映画化。喜ぶよりも戸惑いの方が大きい話だった。肯定側から一旦否定側に戻ってしまった私としては当初全く観る気が起きなかったものだが、いざ観てしまうと、もう駄目。自分の心にあった押さえつけられた記憶が湧き上がってきて、画面そっちのけでそちらを抑えるだけで精いっぱい。一作目の時などは、叫びだしてしまうのではないか?と思ったくらいだ。私の中にこんなものが眠っていたのかよ。ほとんどパンドラの壺状態。

 でも、この三部作を観て、ようやくその感情が整理できた。それだけでも本作には感謝すべきかもしれない。

 思い出はともかく、改めて本作1〜3作について考えてみよう。

 本作は「新訳」と銘打って製作されただけに、富野監督お得意のコラージュを用い(かつて富野監督はほとんどジャンクフィルムだけで30分番組を何本か仕上げた実績がある)、つなぎに新作カットを用いる事で新しい物語に仕上げていることが特徴といえる。実際、ストーリーはほぼTV版に沿っていながら、質感は結構変えられている。

 特にそれは主人公カミーユの性格描写によく現れている。TVでは些細な事で苛つき、周囲の人間に毒を吐きかけ、傷つけられると自分の殻に閉じこもるどうしようもないキャラだったが、本作では3部を通し、水みずしさを“ある程度”は保持できていたし、傷つけられても、それを超える力を持たせていた(これには恋人であるフォウやロザミアを本人が殺したという描写を抜いたことが大きいと思われる)。情緒的に不安定さのあるニュータイプの兵器ではなく、傷つきやすくはあっても、人間として生きていけるキャラになっていた。単的にそれを示していたのはラストシーンで、TV版だと、あそこまで極端に兵器化し、精神が崩壊している状態では、元の状態に戻す事は出来ずに壊れるしかなかった。一方本作では、その描写を取らず、ファの元にきちんと戻っている。これを可能とさせる事を求めて作っていたのではないだろうか?ラストの改変はほんの些細でも、そこに至る過程が重要だったのだ(確かに、TV版に即した『恋人たち』とか観る限り、相当エキセントリックには違いないけど)。人間として欠陥のある人間が兵器になっていく話にしてはならない。と言う監督の意思力の賜物だ。そこに至るにはTV版と多少齟齬が生じるが、だからこそ、その齟齬をごまかすためにも”新訳”の言葉が必要だったとも…

 その他の人間に関しても、あれだけの数を少なくとも用いられただけでも良いか。エマとレコアに存分に語らせたのも良し。エマとヘンケンの関係が微妙な笑いに仕上げられもしてる(実際、本作を観直す機会があったら、カミーユ、エマ、レコア、それにサラとカツに注目してほしい。この5人がほぼ全編を通して中心となっていることが分かるだろう)。ただし、物語の中心にいながら、同時に政治的な存在であるクワトロやハマーンは描写が複雑なためか、脇に追いやられているし、ライバルかなんだか分からないうちに死んでしまったジェリドや1部から登場していながら存在そのものを消されてしまったロザミアのような可哀想な存在もある(一応登場してるけど、霊体としてのみ。サイコガンダムMKIIでおお暴れする姿は観たかったね)。一応メインヒロインのはずのファの存在感も低かった。

 確かに不満だらけとはいえ、元が悪かっただけに、キャラクタ描写はこれが限界だったか?

 政治的駆け引きに関しては、はっきり言って完璧な「一見さんお断り」で、四つの組織がくんずれほずれつ。同盟を結んでは破棄を繰り返し、もうぐちゃぐちゃ。オリジナルではこれを解きほぐしていく作業が好きだったんだけど、映画では乗り遅れないようにするので手いっぱい。それぞれが背中にナイフ隠したまま握手を繰り返していて、他人を信用してしまった者から退場していく事だけ分かっていれば充分。

 そして本作の肝とも言えるMS戦の描写は…これだけは間違いなく良質。ほとんどすべてのMSをきれいに描写していた。これはデジタルのおかげだな。あまりに複雑なデザイン故にオリジナルでは活躍の機会のなかったレコアのパラスアテネが暴れまわっていたのが嬉しい(当時プラモデルも出ていたが、出来が悪く、徹底的に改造しまくったもんだ)。シロッコのジ・オの隠し腕もちゃんと活躍していたし、あの永野護がデザインしたハンブラビとキュベレイの見せ場が多かったのも個人的には嬉しい。

 …こう書いてみると、本当にいくらでも書けてしまう自分に驚かされる。はっきり言ってまだまだ書くべき事はいくらでも湧いて出るぞ。

 これだけ自分の中に思いが詰まっていたのが驚き。お陰で無茶苦茶オタクっぽいレビューになってしまったが、悪しからず。

(評価:★4)

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