[コメント] 時をかける少女(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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その違和感の根源は、劇中で描かれる日常的な高校生活のリアリティのなさがやたらと目に付いたからか。
タイムリープというありえない超能力よりも、男2人女1人という仲良し3人組の存在よりも、そのわずか3人が、まるで好きな時に思う存分、キャッチボールとかフリーバッティングをして楽しめるような広々とした、彼ら以外無人の、整備されたグランドがいったいありえるのかあ?という疑問、違和感、非現実性、がどうしても頭から離れないのだ。
何故なら、青空と白い雲の下、緑に囲まれた広々としたグランドで、キャッチボールやバッティングをしながら楽しそうに話しているからこそ、清清しく好感を持つが、これが道端のコンビニの駐車場で、ケータイ片手にカップラーメンとかスナック菓子を散らかしながら、座り込んでくっちゃっべてる3人組の高校生なら「うっとうしい」とか「目障りなやっちゃなあ」くらいにしか感じないし、そんな奴らが告られたのだの付き合おうとか話してたら痴話げんかなら他所でやれ、としか感じないだろうなあ、と思うのだ。
ただ、この違和感は、私の中で年月を経るにつれ現われては消え、消えては現われるものなのだろう。
「時をかける少女」との初めての出会いは、NHKの少年ドラマシリーズの第1作目「タイム・トラベラー」であったが、少年ドラマシリーズの主人公は高校生というパターンが多くて、それに見入っていた小学生の私には、高校生というのが大人以上に大人びて見えて、自分も高校生になったら当たり前のように、人類の未来のためにとか世界平和のためにとか闘うかどうかという選択の時が来て、自分は絶対闘う方を選ぶんだ、なんていう、ありえないような憧れを高校生に抱いたものだ。
そういう憧れは中学生の始め頃まで続いたが、中学生の終わりから高校生、そして大学生くらいになるとさすがにそんな無理だらけの空想もしないし、映画やドラマの高校生と現実は全然違うよな、と区別がつく。
ところが、20代後半から30代半ばくらいになると、今度は自分の中で高校時代の思い出がえらく懐かしく、かつ良かったところだけがやたらと強調されて思い出されてくるから、不思議なことに映画やドラマの高校生を見て、そういう部分だけが妙に生々しく思えてくる。
そして再び、やっぱり現実の高校生活ってこんなんじゃないよな、という思いが再び強く現われてくるようになるのだろう。だからもう何年かたつと、やっぱりそういう非現実性は再び大目に見て、懐かしさに打ち震える時が来るのかもしれないが。
そういういった違和感はあったものの、過去と未来、現実と憧れ、希望を行ったり来たりしているという感じはよく出ていたと思うし、なによりも原作の設定をここまで見事に、自分の世界として構築していった腕前は見事だと思う。
ただ敢えて言わせてもらえば、「ラベンダー」という名前しか知らない幻想的な花の香りが、超能力発動のきっかけになっているという、かつての少年の心を大いにかきたてた、その設定だけは活かして欲しかったなあと、思ってしまう。
また、等身大の高校生時代にいきなりタイムリープという超能力が備わったらどうなるか、まるでドラえもんがもしあなたのところへやってきたら、まず何を頼むか、みたいななさそうでありそうな滑り出しを上手にみせているとは思う。
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