[コメント] 虹の女神(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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主演二人のやりとりや所作の魅力につきる。市原隼人のボソボソしたしゃべり、上野樹里の猫背、うまいなあ。バイト先移籍の話をしながら二人が道を歩き、タクシーに乗り込むまでのシーンは思わず再生リピートしてしまうくらい良かった。
あと脇役の蒼井優、小日向文世、佐々木蔵之助らが、主演二人と絡む場面で見事な受けの演技をして、二人を輝かせている。華やかではないけど輝かせている。とくにお祭りの場面での、ちょっとおせっかいな姉に困っているんですと心底嬉しそうな素振りをみせる蒼井優の芝居が、あおい(樹里ちゃんの役名…ややこしい)のキャラクターを数倍膨らませていくあたりには感心しきり。さすが蒼井優。お祭りで、妹がどこかにいっちゃって、探して、先に戻ってて、バスに乗って帰る、という一連のシークエンスは、上野樹里、蒼井優二人の演技合戦がみられるということ以上にたまらなく好きだ。
ところが、そういう何気ない場面のよさに比べて、感情が高まる「ここ一番」という場面になると途端に気になるのがカメラの動きなのだ。カメラが動くのである。言ってしまえば、動くことで「ファインダー越しに覗いている」かのような感覚にさせられる。私は、あおいとトモヤの屋上での別れのシーンで、二人の芝居にぐっと入りかけてたものが、カメラを意識させられることで気が削がれてしまったのだ。
これが監督にとっての「正しい」見え方なのだろうな、と思う。世界の事物の中で、監督自身が訴求させられる場面とは、常にハンドカメラ越しに覗いてきたものということが、監督にとっての真実なのかな、と、そこに嘘がつけなかったのかな、思ってしまう。劇中、佐々木蔵之助がいうところの「フィルターを通したリアル」というのは言いえて妙だが、そのことに監督は自覚的だったのだろうか? そう思うと、監督にとっての「大切なこと」は、映画作品を制作するということを超えて「対象を映画に閉じ込めること」なのか、とちょっと気味の悪い感じがしてくる。エンドクレジットで流れるトモヤとあおいの二人のフラッシュバック、それこそが二人の過ごしていた時間(本編)以上に、監督にとって「本当」のことだったような気さえする、といったら言い過ぎか?
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