[コメント] 甲野善紀身体操作術(2006/日)
甲野さんのジャンルである「身体操作」という世界は実に私たちの身近な問題であって、毎朝駅の階段で息を切らしている不摂生の私などは「楽な階段の登り方」だけでももっと聞きたいと思ったし、単純に面白かった。
また、何かと頭でっかちになりがちで屁理屈こねがちな自分にとって、甲野さんの体現する物の考え方や世界の捉え方というのは実に新鮮で、清々しいものだった。「我思うゆえに我あり」の、さらにその一歩手前の確かな肉体存在としての自分を再認識するという体験。そこから先は受け手に完全に委ねられていて、介護士やフルート奏者のように暮らしや仕事に役立ててもいいし、所作の美しさは演劇にも応用が利くらしいし、授かり物としての肉体に感謝を捧げる者もあるだろうし、不可視の体内宇宙にロマンを感じるのも楽しい。自分の肉体と精神の関係性を考え直してみるという行為は、もしかしたら鬱だストレスだ自殺だと穏やかじゃない現代企業戦士みたいな人たちにとってもたいへんに有益なアプローチになるかもしれないとも思う。
何より、甲野さんの研究は、きっと全人類にとって単純に面白いことだろう。この作品を観ていて思ったのは、その単純に面白いことを単純に面白いという風に伝えるのは、ドキュメンタリー作家にとっては「すごい!」とか「お役立ち!」とか言うより難しいことなんじゃないかなぁ、ということだ。例えば、桑田投手なんかのエピソードを取り上げてスポーツ界に革命を引き起こすスーパー・プロフェッサーとして持ち上げてもいいし、介護業界の救世主だっていい。極めてストイックな孤高の仙人というのもカッコいいし、現代の宮本武蔵なる剣術の達人などと言い切ってもいいだろう。どんな切り口で描いても甲野さんはきっと同じことしか言わないだろうし、それでいて充分な説得力を持ったドキュメンタリーになっていただろう。
だが、この映画に登場する甲野さんは単なる「身体操作ヲタのおっさん」なのであって、私たちが聞きかじったことのある「武術とは何たるや!」「かくありたし!」などという哲学染みた御説法もなければ、建前もないし理想像すらない。ただひたすらに一人の人間が「身体に聞いてみよう」というシンプルな問答に明け暮れる様子だけが映し出されている。それでいて興味深く観ていられるのは、「身体操作」というジャンルがとことん自分に関係のある話だからだ。
つまりは、甲野さんの研究内容は非常に間口が広く、しかも受け取る側の思考に対する自由度がむちゃくちゃに高いわけだ。その「間口の広さ」を、この映画はそのまま感じさせてくれた。それは、むやみにドラマを語らず、あくまで“術”の面白さだけを紹介したこの映画のスタンスが、きちんと甲野さんに寄り添っていた証なのだと思った。
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