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[コメント] 監督・ばんざい!(2007/日)

もはや誰も笑わない。もしくは、一人笑い続けるしかない。元来た道に引き返すか、突き抜けるかは私たち自身の問題である。(6/13追記)
hk

笑う理由もなければ笑わない理由もない。5点でも1点でも変わりはしない。

「全ての映画ファンたちに贈」られたこの映画は、ほとんど全ての映画ファンたちを思考停止状態に追い込み、湧き上がる諦めと怒りに満たされた彼らを全てが平穏だった映画世界に追い返すであろう。そしてしかし、ごく一部の残留物、遠心分離機にかけられてもまだ席に踏みとどまろうとする奇妙な奴らの頭の中にはある一つの疑問が湧き上がる。これは、もしや...挑戦状なのではないか...私たちは試されているのではないか......そうだ、これは「たけしからの挑戦状」なのだ!!(映画と同じくらい寒いオチ)

もはや誰も擁護しようとはしない、そして誰の擁護をも求めてはいない一人の孤独な男、「世界の○○○」との賞賛の言葉がいつしか皮肉をこめて口にされるようになった当の男は、辺りに蔓延する落胆と憐みの空気をあろうことかなんと映画作りの活力に変換しはじめる。「来たぞ、きたぞ、きた、きた、きた、キタ、キタ、キタ、キタノー!!」(映画と同じくらい意味不明)

彼にとって「映画」とはもはや汚物のようなものである。いや、ただの汚物である。汚物を描くなら汚物のように撮るしかない。汚物には汚物を。その瞬間、彼の映画の前ですべての「映画たち」はただの産業廃棄物となる。捨ててしまえ。壊してしまえ。産業廃棄物に群がる無数の蝿たちともども、次元の闇に葬ってしまえ。そして、一つの時代が...ある一人の男にとっての一つの時代が...幕を閉じる。「映画」なるものは彼の目の前で絶滅し、また新たな「映画」なるものが始まる。自らが葬られたことにすら気づかない者たちをよそに、勝手に歴史の一ページは開かれる。

向こう側では「つまらない」との声が聞こえる。そちら側では「金返せ」との声が聞こえる。しかし、彼にそれらの声は届かない。「お笑いなんてそもそもバカバカしいものなんで、あんたは正しい!! テレビでは教えてくれないお笑いの真髄を君は観たんだ!!」「前作観てれば今回の内容も想像つくだろうに、それでも寄附してくれたあんたも素晴らしい!」「間違って観てしまった殉職者は3階級昇進しときます」。そんな冗談めいたことを半ば本気で口にしながら(?)、彼は秘めているつもりのない野心をちゃっかり映画に組み込みんでいた...武流メタ映画の誕生。

「ここ3部作がちょうどブラックホール・ワームホール・ホワイトホールの関係になってんだけど、最初の時点で入り方に失敗する人と、2作目で絶えられずに振り落とされる人と、3作目まで気が狂わないで耐えられる人に分かれるようになってて、だから、入口と出口の次元が違うんもんだからそれに気づく人だけついてこれるようになってて、だから、あれだ、たけし城みたいなもんだね...あれ違うか(苦笑い)」

そうなんです。この作品がワームホールなら点数がつけられないんです。入口と出口ならそれぞれの次元(評価軸)でかろうじて点数がつけられるのだろうけど、あいにくここは次元が捩れちゃってるから原理的に採点不可能なんです。で、1点2点が多かったのでせめてバランスをとるために5点つけときました。

...と武映画風に書いてみましたが...ってもう誰も読んでないかorz

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(6月13日追記)

上の文章だと何が言いたいのかがかなり伝わりにくかったように思うので、多少追記しときます。何も調べずに書いている(若干無理のある)勝手な解釈なので戯言程度に読んで下さい。

<ネタがつまらない>

 ネタがつまらないからと評価を下げる方が多いようですが、武映画の場合はネタがつまらなくても一向に構わないんです。なぜなら、監督自身がいわゆる「笑い」をとることにこだわっていないどころか、逆に滑ることを狙っているように思えるからです。武の基本は「バカバカしいのが面白い」というところにあり、それと彼の狂気的な性向があわさって、つまらないと周りから思われていることを敢えて繰り返しやるという、ドS(「くだらなくても笑えよ、クソ観客ども(゜Д゜)」)のようなドM(「観客の苦笑いが、気持ちイイ(゜∀゜)」)のような行動を普段からテレビで彼に採らせているように思われます。M1グランプリなどでみられるような綿密で精巧な笑いなど、武にとっては肩の凝るクソまじめな猿芝居であり、滑ることに怯え観客に迎合している哀れなピエロに映るのだと思われます(言い過ぎました)。

滑ることで観客は映画から文字通り「引く」ことになり、映画に対する同一化が解かれ、しかもそれが繰り返されることで弛緩した「しらけ」の極限にまで追いやられることになり、その極限の中でバカバカしさがいつしか面白さに自然に変換される瞬間を味わうことができるという、「笑い=弛緩反転運動」なるものを実践しているのではないでしょうか。いわゆる「笑い」など始めから期待しない心持ち(弛緩)で映画を見れば滑り具合をかなり楽しめる内容(「また滑ってるよ」「くどいよ」が誉め言葉となる)となっているのですが、みんなどこかでいわゆる「笑い」を無意識にでも期待しているが故に楽しめないのだと思われます。

<一貫性がない>

前半のテンポの良い展開が後半で放棄されていてバランスが悪いとの意見も良くあるようですが、むしろ、この構造は漫才の構造(いくつかのストーリーを披露した後でメインとなるテーマについて長くやったり、客受けの良いテーマを引き伸ばしたり、広がりそうな話題を長くやったり)に似ていると捉えるのがよいかと思われます。

<今作品の狙いと位置づけ>

かなり大雑把にまとめると、『TAKESHIS'』以前の武映画は、「遊び」のシーンがそれまでの物語空間に突如異次元を出現させるいわば「息抜き」(物語からの一時離脱)のような役割を果たしていたものの、映画としてはあくまで一次元映画(一つの物語)だったわけです。それが、『TAKESHIS'』においては複数のリアル(次元)を往来することで「一つの物語」なるものを観客が再構築することを困難にする入れ子映画になり、観客の映画に対する見方(一つの物語を求める)に揺さぶりを掛けるようになったのでした。さらに、今回の映画では、複数の物語(試作映画)を現実に登場させることでこの映画を一つの物語たらしめようとすることを完全に放棄したことを「構造的」に宣言し、同時にメタ的に監督という立場から「内容的」に一つの物語たらしめるという2重構造をとっているわけです。つまり、ここ2作はこれまでの作品群からはその映画としての構造を大きく変化させてきているわけでして、「形式の変化」を観ることがこの映画を鑑賞する際の大きなポイントになるわけです。

つまり、武が「映画を壊す」というのは、いわゆる「映画的なるもの」(過剰な演出・ありえない設定・陳腐な感傷等々)の化けの皮を剥がしたり観客の期待を肩透かしでかわしたりといった「内容的な意味」での壊すだけではなく、上記のように映画の物語としての構造を破壊するという「構造的な意味」もあるというわけです。こうした流れの中で今作品を位置づける必要があると思われます。

表面だけ変えて同じような内容の映画を再生産し続ける資本主義の権化のような閉塞した映画界にあって、メタ的な視点から映画というメディアを破壊・再構築しようとする武の野心的で稀有な試みはそのチャレンジ精神だけをとってももっと評価されていいように思います。

(評価:★5)

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