[コメント] クライマーズ・ハイ(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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1985年8月12日夕刻に発生した日航123便の航空機事故。520名の死亡者を出した世界最大の単独航空機事故だった。あの日々の事は克明に記憶しているとまでは言い難いが忘れようも無い。俺はニュース速報が出た時、まさにテレビを視ていた(何chだったかは覚えていない)。各社の速報テロップは19時半頃だったというが、長い間18時頃だったと誤って記憶していた。
「行方不明」という内容だったが、すぐに脳裏に1982年2月9日の日航羽田沖墜落事故(死者24名)の記憶がよぎった。「墜落!」そして更に我々は、1983年9月1日のソ連迎撃機による大韓航空ボーイング747撃墜事件(269人全員死亡)を経験していた。「ただの墜落か? …それにしても大事だ…」一般人でさえすぐにそう思ったのだから、報道関係者が驚愕・緊張・興奮したのは間違いないだろう。
そして夜間一旦の捜索活動打切りと、翌日の驚愕の墜落現場の映像。日航機の翼だけが残った惨状を視て、次に俺の脳裏に浮かんだのは、1972年11月28日にモスクワの空港に日航機が墜落した時の(シェレメーチエヴォ墜落事故:62名死亡)、モスクワの平原に残る鶴丸の無惨な姿だった。(この映像がスチル写真だったか想像図だったかはハッキリしない。俺のこの事件を「春男の翔んだ空」という漫画本で強烈に記憶しているからだ。この物語は永 六輔主演で映画化されている('77年:山田典吾監督)が、奇しくも123号墜落事故では永の盟友である坂本 九が亡くなっていた…)
123号墜落事故(「日航機御巣鷹山(おすたかやま)墜落事故」と呼ばれた)の衝撃は、事故直後に留まらなかった。その後暫くして新聞で速報出来なかった現場の状況や人間ドラマが週刊誌に掲載され、その悲哀に大きく揺さぶられた。木にぶら下がった片腕の写真は、当時を知る者には決して忘れる事が出来ないだろう。酷暑の中で体育館に安置された遺体が腐り、身元確認が困難になるという話は、厳寒の海に墜ちた羽田沖事故と対になって大災害の恐ろしさの一面を記憶に刻印した。… 暫くして123号機の死亡者たちが墜落機の中で何を考えたかの検証番組がTV放送され、山腹への激突を避ける為に操縦室では恐怖と戦い乍らの懸命の操縦が行なわれていた事(その結果としてのダッチロール飛行だった)や、何人ものひとが激しく揺れる機内で必死に遺書を綴った事を知らされた。劇中でも悠木(堤 真一)を激しく突き動かすものは佐山(堺 雅人)の現場雑感と最後の場面でのひとりの父親の遺書(本物)である。
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現在はもう様変りしてしまったのかも知れないが、(当時の)新聞記者の熱意(魂)・手法、編集局vs.販売局・社主や幹部との確執や苦労が伺い知れて、「ザ・新聞社」としても興味深い内容になっている。上記のように墜落事故には思い入れもあったので、NHKで2005年12月に放映された佐藤浩市主演のドラマも相当前から注目していた。佐藤や大森南朋・岸部一徳らTV版の気合いは相当入っていたから、今回の映画化での俳優陣も相当な覚悟で臨んだのは間違いあるまい。そう受け取れる熱演だった。コメントでは手ブレ撮影を批判したが、『日本の黒い夏 -冤罪-』('00年)の熊井 啓よりはマスコミの描き方は上手かったと付け加えておこう。
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