コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] スカイ・クロラ(2008/日)

「よくぞ言った!」と感動しつつ、「甘やかしすぎじゃない?」と言う疑念も。すんません、すげえ長いです。
れーじ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画、要するに「子供たちにとっての学校生活」を寓話化したものと受け止めれば、非常に単純明快な話になる。

他の「大人の社会」と一定のつながりはありながら、しかしどこか隔絶された、きわめて限定された社会の中で主人公は動いていて、それは「子供の社会」である。人間関係はどこかうそ臭さがあって(ぎこちなくたどたしい)、でも実際そこに主体としての自己が存在するのでそれが現実として一応機能はしている。「大人の社会」とは別のルールが存在して、その「子供の社会」に属す子供たちはそれに従わねばならない。そしてそれはある種のルーチンを形成していて、同じようなことを繰り返し行っている。で、駄目押しにその「子供の社会」で絶対的な存在となっているのが「ティーチャー」

…「スカイクロラ」でキルドレたちを取り巻く社会、軍事基地まわりの環境って、現実の学校それそのものの隠喩として機能する。

そこで行われる「戦争」も象徴的だ。平和を維持するための戦争だの何だのといったややこしい説明は、監督の意図はどうあれ、僕にはクサナギやミツヤがやさぐれて社会に敵意をぶつけるための能書きとしか思えなかった。それはもっと単純なものだ。

「勉強」

顔の見えない他人(しかし同業者)を蹴落とし、しかし終わりの見えない戦い。そこに個人の価値観は介入できず、ただ結果として示される成績がすべてを決定する。「大人がそのスコアを見守っている」と言う構造もマンマである。さしずめ序盤のサポーターの見学は授業参観といったところか。

そういった視点で見るなら、ラスト、カンナミの「絶対者への挑戦」=「親殺し」はしかしもっと卑近なものになる。

要するにあれはテストだ。

生徒が教師に挑戦する、何よりも基本的な形である。しかもそれは教師側が用意したルールで戦っているという点において、ユーイチがあくまで戦闘機戦で、つまり彼がキルドレという与えられた枠でティーチャーに戦いを挑んだのと一致する。(自分たちを取り巻くループを脱したいなら別の方法がある筈。教師側が提示したルールに沿わずに別の意味でその影響を脱せばいいのだ。「キレた子供が親や教師を刺すように」)

これに関してもう一つ重要な点がある。

試験なわけだから、本質的にそれは「現実に影響を与える何か」ではありえない。つまり、テストに失敗すれば子供はそれこそ「死ぬほど悩む」訳だけど、失敗しても「やり直しが利く」ということ。これ重要。どう重要かってスタッフロール後のオチに直結する(笑)

だからこれは、ものすごい学生向けの映画。

要約すれば試験に合格できなくて延々補習受けてる生徒の話となる訳だから。 そしてそこに付随する不安、焦燥は、実際問題、成績の良し悪しに関係ない。誰だってテストは怖いし、勉強は辛い。

その感情に向かって押井守はこういってるわけだ。

「若いうちは多少のことならやり直しがきくんだから赤点とってもめげずに頑張れ。どうせそれで死ぬわけじゃないんだし」

もっと言えば「赤点取るの怖いだろうし、勉強も辛いだろうけど、まずは自分で動いてみなさいよ。まずはその一歩から」

…「エヴァ」以降、オタクの世界では一時期「セカイ系」なるものがもてはやされた。

いろいろ言い方や定義はあるが「自分の殻にこもっても、それで幸せならいいじゃない」というものだ。

そしてそれから数年経つと、それではいけない、現実に幸せになるのは難しいと言う危機感から、「決断主義」と言うものが台頭してきた。

「今辛いなら、それを打破するためにまず動こう。良いか悪いかを置いといて」と言うものだ。「デスノート」とかアニメだと「コードギアス」あたりがそれの代表格である。

「スカイクロラ」はある種決断主義的なんだけど、微妙に違う。それが多分、この作品のキモであり重要なところだ。「デスノート」にしても「コードギアス」にしても「子供が大人を、大人のルールで圧倒する」話だ。しかし「スカイクロラ」ではあくまで子供用に与えられたルールでしかキャラは戦わないし、そして大人を圧倒することもなくボッコボッコのギッタギッタにやられてしまう。

当たり前と言えば当たり前である。古典としての「親殺し」がそうであるように、大人が子供を超えるには子供は成長しなければならない。血のにじむような努力をして、傷ついて、そういった過程で「子供が大人にならなければ」、子は親に勝つ資格を持たない。小賢しい子供が子供のまま、大人に勝つことなどありえない。

だからこれは決断主義と似て非なるものだ。もっと地道なものだ。端的に言ってしまえば「まず行動しろ」の、その「行動の仕方」が違う。

オシイ監督は「親に勝つために修行をする過程で、傷つくことを恐れるな」と言っているのだ。

少なくともその状況においてそういう言葉を投げかけるのは間違っていない。どころか、凄く真っ当なものだ。

誰でもかけられる当たり前の励ましの言葉である。

だがそれは当たり前であるこそ、とても大切なものだ。そしてそれをオシイ監督は自分なりの方法でガチで言って見せた。

だから僕はそのことについて否定をする言葉を持たない。好感も持てたし、そういう意味で4点をつけた。

……

なんだけど。このマイナス1点が問題。

真っ当である以上、言ってることを否定はしないし、kionaさんがおっしゃってたように、それをオシイ監督が言う事にも意味はある。

けど、「誰でもかけられる当たり前の励ましの言葉である」である以上、他にもこれを語っている人がいて、それは問題ないんだけど、中には「全く同じメッセージを、さらにもっと真っ当な価値観で語る」人もいて。やはりそれとは比較してしまう。そしてその論理で観てしまう。

子供にとって現実がああいう世界に映っていること自体はあながちはずれではないとは思う。僕にだって覚えはある。

だがそれだけじゃないとも思うのだ。そもそも、それはあくまで不安と焦燥に駆られて視野狭窄を起こした子供の主観であって、子供を学校に預けた親の事情を全く無視している。どころか「すべて」の子供が「いつも」そう考えているとも思えない。

視点を変えてみるなら、例えば模範的な親の立場から言うなら、学校は、子供が実社会に出るための強さを身に付けるための場所であり、それまではいろんな意味で弱い子供たちを守るための場所でもあるはずなのだ。

しかしこの作品では、その構成上無理がある話になるためか、その視野狭窄をほぐす事をしていない。

過保護でおしゃべりな親の下で育ったせいか、僕はその視野狭窄をほぐして、「もっと別の見方もあるはずだよ、よく考えて御覧なさい」と言うのも、親であり大人である者達のあるべき姿だと思っている。

だから映画の中に漂うそのディスコミュニケーションが、僕はものすごくさびしかった。いつもの「今見ている現実は全く別のものかもしれない」理論を使えば出来たはずなのに。

そもそも思春期のころ、オレサマだった僕に「でもそんなの幻かもじゃん」と言ってのけ、その不安定さに釘をさしたのは他ならぬオシイ監督である。それは悪意からのメッセージだったかもしれないが、少なくても僕はその結果、視野狭窄のループを何とか抜け出そうとして今の考え方を育んで来た。

なのに今回ではもっとミニマムな一歩を進めるに収まり、それはいいのだが、その結果、子供の側の視野狭窄を、別の言い方をすれば子供にとって都合の良い甘えを、そのまま受け入れているようにも見えるのである。

オシイ監督は原作をして「子供の感情に寄り添った作品」と言ったらしいが「寄り添う」ことと「甘やかす」ことは違う。全く違う。そしてその違いは人の親として致命的なものだ。

そこを勘違いしてはいないか?

そういう疑念がある。あくまで疑念だ。これを甘やかしかどうか断ずるまでの観察眼を僕は持ち合わせていない。そこまで僕自身も大人になりきれているわけではない。そして、あいにくこういうメッセージを伝えはじめたのがこの作品からだから、そのあたりをオシイ監督が実際にどう考えているかは分からない、無理に判断するべきでもない。

正味な話、今回の映画でオシイ信者を止めるかどうか決定すると思っていたけど、どちらにしろ、もう少しこのおじさんに付き合うしかなさそうである。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人) kazya-f[*] 死ぬまでシネマ[*] movableinferno[*] おーい粗茶[*] 煽尼采[*] G31[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。