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[コメント] スカイ・クロラ(2008/日)

押井守のミシマ化(?)。イカロスにして、シーシュポス、更にはオイディプス。父への反逆を、父として描く。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







『スカイ・クロラ オフィシャルガイド』(中央公論新社)所収のインタビューを読んでみると、押井監督は、一人称で語られる原作小説について、その内容が全て語り手の妄想である可能性を指摘し、それを前提としてこの映画を制作したという。監督が脚本を伊藤ちひろに依頼したのは、彼女の脚本による映画『春の雪』を観ての事。その原作は、三島由紀夫の小説≪豊饒の海≫の第一巻。この小説の主人公・清顕の生まれ変わりを、親友の本多が第二巻以降、探していくのが≪豊饒の海≫の軸となっているようだ(原作未読)。だが、或る人物が清顕の転生である事を示すのは、偶然の一致とも取れるような、曖昧な表徴であるという事だ。この、転生を願う者の願望の投影かも知れない曖昧な表徴、という点は、この『スカイ・クロラ』にも当て嵌まる。(『春の雪』とこの映画の構造の類似性については、『春の雪』のコメント内の犬と仏に言及した箇所を参照されたし(*向こうもネタバレです))

曖昧な表徴とは、まずは容姿であり、更には、読んだ新聞を丁寧に折り畳んだり、使ったマッチを折って捨てる、などの癖。だが、そうした類似性・反復は、キルドレたちだけに見出されるのか。彼らがよく立ち寄る“ダニエルズ・ダイナー”の前には、いつも一人の老人が座っているが、マスターがこの老人の隣りに座った時、年頃は違うが、二人の容姿と表情が酷似しているのが見てとれる。この何気ない場面一つで、キルドレが再生している証しである筈の、極度の類似性というものが、キルドレ独自のものである確証が弱まり、彼らと普通の人間との差異も、曖昧になる。

キルドレたちは、仮初めかも知れないが、永遠の生の中にあり、彼らの戦場である空でだけ、死と向き合う。一方、地上でのみ生きる人間は、敵に殺されるまでもなく、死が約束され、老いと向き合う存在。キルドレは、まるで特攻隊の若者のように、老い、つまり未来というものが失われた存在だ。「明日死ぬかもしれないのに、大人になる必要なんてあるんですか?」と、ユーイチが言うように。マスターと老人の、鏡合わせのような姿は、成長し、老いて死ぬ人間の生すら、一つの反復である事を告げる。それとキルドレたちの明確な違いは、死に‘自ら’立ち向かっていく所にある。

他にも、スイトが妹だと言い、他の人間からは娘ではないかと噂されている少女の正体など、事の真相が伏されたまま終わっている所が幾つもある。特に、過去の記憶が曖昧なのが、ユーイチだけではなくて三ツ矢も同じだという点には注目したい。三ツ矢はユーイチに、キルドレが如何なる存在なのかを詳しく語って聞かせるが、そう言っている彼女自身が、どこでどうそれを知ったのか、事の真偽も含めて分からずにいて、頭を混乱させている。現実の僕らにしても、世界や自分の存在についての情報や、それに基づく理解に、どこまで確たる根拠があるのか分からないものであるし、日々同じような生活を繰り返しているせいで、去年や一昨年どころか、半年前の、個人的な出来事や、ニュースの時系列さえ記憶が曖昧になっている経験が、よくある筈。キルドレは、僕らとは隔絶した存在として、現実の人間を逆照射すると同時に、或る面では、現実の人間の在りようを投影した存在でもあるのだ。

地上が、どこか倦怠感に澱んだ空気に浸されているのに対し、殺戮の場である空は、青く澄み渡っている。“ティーチャー”が、キルドレたちを容赦なく殺戮しようと待ち構えている雲の上は、一点の曇りもない、天国のような世界だ。場面の動きの方も、地上の単調さとは対照的に、空では、視聴覚的にも状況的にも、常に劇的。いつ何時、どこから敵が襲ってくるかも分からない緊張感。プロペラと機体が風を切る轟音。目まぐるしく回転する景色。雲の合間に、霞んだ黒い点のように見える敵機が、徐々に近づき、接近すると同時に鋭い金属音を鳴り響かせて無数の弾丸が襲ってくる。機体の鉄板に弾丸が食い込む音。たなびく黒煙。爆発。機体の重量感と、それが軽やかに空を舞う感覚。加速によるGさえ感じさせる見事な映像だ。これを体験する為だけにでも、映画館に足を運ぶ価値はあるだろう。

キルドレの乗る機体がCGで緻密に造形されている分、そこに乗り込む彼らの、陰影に乏しいシンプルなキャラデザインは、平面的で浮いて見える。これはキルドレの、幻影のような存在性を浮き上がらせる為に、監督が狙って演出した事だろうと思う。『イノセンス』の方法論を更に極端に押し進めた形だ。ドアや家具のサイズが極端に大きく描かれているのも、キルドレを‘闘う人形’のように見せている。彼らが、子供の姿をしながら飲酒をし、煙草を吸ったり娼婦を買ったりしても、そこに生々しい厭味は無く、どこか行為と彼ら自身が吊り合っていない哀しさが漂う。

考えてみれば、そんなキルドレたちの姿は、僕らが何気なく楽しんでいるアニメの戦闘少年少女たちと似ている。繰り返される類型的イメージ、キャラ特性の反復。永遠の少年少女。自己の存在価値を、戦う事でしか保てない。『ガンダム』にせよ『エヴァンゲリオン』にせよ、主人公の少年は、否応無しに戦争に巻き込まれつつも、そこに自らの存在意義を見出していく。その戦いには全人類の命運が懸かっており、特殊な能力を持つ彼らは、周囲から強く必要とされる。だがキルドレたちは、単に人々が自らの平和を実感する為に、ゲームとしての戦争を遂行させられているのであり、「皆」の生存の為という強烈な必然性などは無い。平和な日本の中の、娯楽としてのアニメの中の戦争。

キルドレたちの生と死さえ、どこか淡々として、退屈でさえある。「殺してくれる?さもないと私たち、永遠にこのままだよ」と訴えるスイトの言葉は、この退屈、過酷な命のやりとりの最中にいる筈なのに、自分の命にすら実感が得られない在りようを嘆いているように聞こえる。

キルドレたちの基地を見学に来る「スポンサー」たちは、英語を話す白人たちだ。キルドレたちもまた、空に上がると英語で通信をする。空に在ってすら、地上の大人たちの支配を逃れていない事が、この一点に感じられる。『パトレイバー2』での米国の描かれ方を思い起こすべき所でもあるだろう。

天にまします父なる神、絶対神のような“ティーチャー”は、ユーイチにとって、越え難い壁として立ちはだかる。“ティーチャー”は彼をさらなる高みへと引き上げるが、と同時にその傲慢さを挫こうともする。勝つ見込みの無い敵に、一矢報いんと向かっていくユーイチの姿は、特攻隊の姿とダブる。キルドレが何度も生まれ変わるのは、闘いで積んだ経験値が失われないように、というのが理由だと三ツ矢は言う。それなら、何度も生まれ変わるうちに、ユーイチはいつか“ティーチャー”を倒すほどに強くなれるのだろうか。だが、映画の冒頭の撃墜シーンと同じように、最後もあっさりと撃墜されたユーイチには、それは遠い事のようにも思える。

映画の最後、エンドロールが終わった後で、再び、この映画の導入部、ユーイチがスイトの所へやって来る場面の反復が行なわれる。空から、天国からユーイチが帰って来たようなラストシーン。スイトの元に、再び愛する者が戻ってくるハッピーエンディング?だが、またもや永遠とも思える繰り返しが始まるのかも知れない、無間地獄のような展開でもある。これを、なぜわざわざエンドロールの後で流したのか?それは、この映画が、同じ人生を繰り返す登場人物たちと共に、永遠に終われない映画であるからだ。終末が発端。永遠に始まる事さえ出来ない映画?だがまた、或いは次こそは本当に終わる?という、微かな希望を残しているのが、この映画。

キルドレたちにとって、神、父である“ティーチャー”。だが、ユーイチは、この“ティーチャー”を殺す為に命を賭ける事で、この映画のエンドロール後にやって来た次のキルドレに対し、自らの意志を継承させる‘父’の立場に立ったとも言えないか。次のキルドレを「お前を待っていた」と迎え入れるスイトが、言わば‘母’の立場に立つ事で、ユーイチもまた‘父’の立場に立つ事になるのではないか?これと同じ理屈で、ユーイチは前任者たるクリタ・ジンロウとスイトの息子的役割をも担っているのだ。

考えてみれば、ユーイチが“ティーチャー”に立ち向かおうとしたのは、スイトが“ティーチャー”に撃墜された事、そしてそれにも関わらず、辛くも生還した事に由来する筈。つまりこの事で、「スイトがいつかは“ティーチャー”に奪われてしまう」という恐れが生まれ、これが“ティーチャー”を殺すべき理由になる。ユーイチは、“ティーチャー”とスイト(母にして恋人)の間に、エディプス・コンプレクスの三角関係を成している。実際、押井監督は何かのインタビューで、“ティーチャー”の機体を極端に長くした事について、あれは男根だからだと言っている。また、スイトが命を落とさずに済んだのは、母としてミズキを守る立場だから。ユーイチは、守るべき者の為に、自分の命を捧げる。こうした(保守的とも言える)男女の構図は、三島由紀夫が様々な所で述べていた事でもある。三島は自らの保守思想の根拠を肉体に求めたが、押井さんも『イノセンス』の後、体調を崩したのを契機に空手を始め、傍目にも随分変化したらしい。三島には、肉体哲学の書≪太陽と鉄≫があるが、その末尾を、戦闘機の搭乗体験記と、そこに挿入した詩≪イカロス≫で終わらせている(「F104、この銀いろの鋭利な男根は、勃起の角度で大空をつきやぶる」)。

押井監督自身、この作品の最初の試写を大学で行なったり、「若者に伝えたい事がある」と明確なメッセージを述べたりと、‘父’として振る舞おうとしているのが見てとれる。この映画を制作するに当たっても、娘さんが関心を示した事が動機の一つになっていたという。だが、この映画に致命的な欠陥を指摘する事が出来るとすれば、「今の若者に伝えたい」という目標が、恐らく充分には達成されていないだろう、という所。彼の語り口は慎ましやかに過ぎ、謎めいた印象を与えすぎる。本当は劇中の若者の‘気分’を感じとる事が重要なのだろうけど、それならばユーイチの主観にもっと寄った演出の方が有効だったのではないか?大人の視点から若者を観察しているような‘距離感’は、他の押井作品なら有効だったのだろうけど、今回は足枷になってはいなかっただろうか。言いたい事をはっきり言わずに口ごもる、寡黙なお父さん…。

この映画の、一見すると淡々としている日常の場面は、現実の若者の倦怠感や閉塞感に寄り添ったつもりなのだろうけど、キルドレたちは、ただひたすら単調な日々の繰り返しに浸されている訳ではない。常に「召集」に備えているという緊張感を与えられている事は、或る面、羨ましい話になってしまうのではないか。現実の若者がケータイ一本で日雇いのバイトに駆り出されるのに比べれば、一回一回に賭けるものが違うのであり、空の上は全くの実力主義の世界。英雄になれるかどうかは腕次第だ。この映画は、やや短絡的に「希望は、戦争」(by.赤木智弘)といった種類の言説に結びつきかねない面も無くはない。

恐らく、この映画の最も本質的な事は、三ツ矢がやや説明的に過ぎる台詞で語る、キルドレの立場の曖昧さ、つまりは外界の不明瞭さなどにはなく、ただ眼前にいる、自分の愛する者だけが現実だという所にあるのだろう。監督は、脚本の伊藤ちひろに、こう言ったという。「究極の愛とは、自分を殺してくれる相手に出会う事だ」。ここで言われている「殺す」とは、肉体的に命を奪うという事以上に、「自分が見、信じ、その中に生きている世界を、雛鳥を包む殻のように壊してくれる」という意味だと受けとれる。だからこそ、そうした者の為には自らの命を捧げる事も出来る、という訳だ。

「人は誰とも出会うことなく、というより他人を必要としないままに、生まれ成長し子供をつくり年老いて死んでゆくのではないか。(略)自分がいなくなってもその場に在りつづけ、自分と同じように世界を眺め語り死んでいくであろうそんな<他人>を信じることは、きっとそのままこの私たちの生きる世界を信じることであり、それが唯一の<現実>であることを信じることに違いない」 (押井守『天使のたまご』(アニメージュ文庫)「あとがき」)

ところで、栗山千明はさすがにアニメ好きを自任するだけあって、プロの声優と比べても遜色の無い演技をしていたと思う。それと比べるまでもなく違和感と不安定感があるのは、菊池凛子。ペラっとしたアニメキャラから自分の声が出てくる様に馴染めずにいるような雰囲気が抜けない、ギクシャクした演技。だが、却ってそれが、心と体が一致していないキルドレの違和感と不安定感にマッチしているようにも思えてしまい、ミスマッチの妙とも言うべきか。あの、大人ぶり、冷徹ぶっているようでいて、どこか舌足らずな台詞回しは、実はスイトにピッタリだったのかも知れない。彼女は『バベル』では台詞の無い役だったが、その、どこか幼く無防備な危うい存在感は、本作でも活かされている。

(*因みに、ユーイチが「“ティーチャー”を撃墜する」と宣言した時、字幕にはそんな風に書かれてあったが、英語で言われた台詞そのものは「Kill my father」だったように思う。これは僕の思い違いかも知れないので、また何かの機会に確認したい。もし間違いであれば、この部分のコメントは消しますので、コメント投票の参考にはしないで下さい^^;)

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