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[コメント] ゴールデンスランバー(2010/日)

「イメージだよ、イメージ」。「イメージ」からの逃走劇と、その、「世界の不条理性」に対して抱いているらしきイメージの青臭さ、またその性善説的な人間観そのものが持つ不条理感。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭シークェンスに於ける車中のシーンで、森田(吉岡秀隆)が雅春(堺雅人)に言う台詞、「イメージだよ、イメージ」。首相暗殺犯というイメージを雅春が担わされることになるのを予告する森田。事が起こる前に予告するということそれ自体が、予め想定し得るような、まさに類型的なイメージに沿って事が行なわれることを実感させる。

最後になって、冒頭のデパートのシーンが、時系列的には雅春の整形後であったことが明らかになるのだが、冒頭の方では晴子(竹内結子)の夫(大森南朋)が、エレベーター内で遭遇した雅春について、指名手配されている通り魔は、ああいう男なのではないか、と「イメージ」を語っていた。だが実際の通り魔・キルオ(濱田岳)もまた整形しているので、手配書の似顔絵とは「イメージ」が異なっている。通り魔=犯罪者の「イメージ」を図らずも継承したらしい雅春。ここで観客は、雅春がこの映画の全篇に渡って格闘し続けてきた「イメージ」というものの曖昧さと、改めて直面させられる。

ヘッドホンの狙撃手(永島敏行)から偶然、雅春を救ったキルオは、そのヘッドホンの男を追っていたのだと雅春に告げるが、なぜ追っていたのか。キルオもまた何らかの理由で濡れ衣を着せられていたのか。このキルオという特異なキャラクターは、その暴力の発動にしても、その風体にしても、魅力的な唐突感を担っていて、一種のカリスマ性さえ感じさせる。通り魔であるということを本人は特に否定していないのが、その倫理的な曖昧さによって観客の胸にモヤモヤとしたものを残すのだが、取り敢えず、劇中で彼が振るう暴力は、どれも自衛、或いは雅春を救うためのもの。晴子親子を見張っていた刑事に攻撃をしかけ、結果、晴子による、カローラのバッテリー交換を援助するシーンでは、刑事が車中で気を失っているカットは見えるが、彼が殺されるなり何なりされているのかは不明なのだ。

ビートルズやオズワルド云々や、晴子がカローラのバッテリーを買いに行くシーンでの、晴子が歌うカローラのCMソングを店員も知っていたことで、バッテリーの種類が判明するという、ちょっとした要素の助けで赤の他人と繋がれるという作品のテーマへの忠実さ、ついでにCMソングの歌詞(「一人、それもいい/二人、それもいい」・・・・・・と仲間が増えていく)もまた作品のテーマとリンクしている、といったアイテムの使い方に、どうもこの伊坂幸太郎独得の衒いが感じられて、醒める。むしろ、「よく出来ました」の二重丸のような、ごく私的な記憶に強烈に結びついているアイテムこそ、情動を揺さぶってくれる。

森田は車中で言っていた。人にとって最強の武器は、習慣と信頼だと。だが、「習慣」を成立させるような、生活の一定の恒久性は、突然の爆発に続く一連の出来事によって吹っ飛ばされてしまう。また「信頼」にしても、雅春が森田や小野(劇団ひとり)によせていた「信頼」は、権力側によって悪用されてしまうのだ。そもそも、突然声をかけてきた赤の他人である小梅(相武紗季)への信頼が、致命的なミスでもあったのだ。だが、森田も小野も、最終的には雅春の味方であることを明確な態度で示すし、柄本明のような「最新のお友達」を新たに得たりと、権力側に対して、「信頼」によるレジスタンスを持続させていく。

アイドル・凛香(貫地谷しほり)を救った英雄として顔が知られていること、つまり一般庶民から雅春に寄せられる信頼さえ、何か『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロ風の歪んだ英雄願望の持ち主という「イメージ」へと転じられようとする。ファミレスで小野を待っていた雅春が店員から声をかけられるシーンでの、通報されるかと思いきや、凛香の救出者として憧れの目で見られサインを求められるというくだりは、「イメージ」なるものの両義性を突きつける。凛香を襲った犯人がナイフを持っていたという辺りがまた、ナイフを持った通り魔・キルオに救われることと併せて考えると、皮肉な構図になっている。

青柳雅春という身体のイメージを、偽者によって悪用された雅春は、最終的には、彼自身が整形を施されることで、「イメージ」からの逃亡を図る。思えば、整形したのかしていないのか、本人は否定するが疑惑の残る凛香の命を救ったことが、最終的な逃亡の成功をもたらすというのも、アイドルという、宿命的に「イメージ」を担わざるを得ない存在を救うという行為そのものが、物語のテーマと密接に絡んでいたのだと気づかされる。

森田は言っていた。どんなにぶざまでも、生きろ、と。そこで思い出すのは、キルオが、ヘッドホンの狙撃手との格闘の後、ネットカフェで雅春に、今回も逃げてきたから負けだけどね、と自嘲していたこと。その彼が、待ち伏せていた敵の攻撃を受け、反撃で刺殺したとはいえ、自身も撃たれて絶命する辺りが、この作品の示す一つの倫理なのかもしれない。雅春が、整形以前に最後の抵抗として選んだ手段も、カメラの前で真相を告げ、人々からの「信頼」の回復を試みるというものだった。顔の見えない人々に向けての演説は、だが、途中で声を断ち切られる。結局、晴子との個人的な信頼と思い出の込められた二重丸の描かれたマンホールの蓋(のイメージを装った偽の蓋)を開けて、地下へと姿を隠すことになる。そして、権力者たちの陰謀といった、勝ち負けを競うような土俵に上がることはしないのだ。

まぁ、そういったテーマ性は、これはこれで一つの姿勢として、構わないのだが、どうも、斉藤和義のエンディング曲の歌詞にも覗くような青臭さ、「大人は汚くて身勝手で、エゴイスティックなエイリアンでしかない」といった、駄々っ子じみた世界観(雅春側に協力的なのは、半ば以上、人生からリタイヤした老人としての大人のみ)には違和感がある。また、そうした大人たちの、理由不明な暴力性と対応する、「善意」の唐突さと絶対性。この作品、というか、伊坂原作映画は全般的に、世界の真の複雑さや曖昧さからこそ逃亡している観がある。

いや、政治的な真相が明らかにされないのは、主人公サイドの限定された状況に沿ったものとして肯定するけど、懲悪しきれない勧善みたいな二元論が単純すぎ。香川照之が、欧米のように強引な捜査が叶わない国内事情を嘆きながらも小野を殴るシーンに込められた微妙なニュアンスを、もう少し覗かせてみてもよかったのでは。

(評価:★3)

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