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[コメント] プレシャス(2009/米)

10年に1本のレベルとまでは言わないが、年度を代表する傑作というに吝かでない。キャストの充実も含め、フィルムに焼き付けられた作り手の熱気が、作品の質として昇華された幸福な映画である。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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憐憫を排除した上でヒロインへの感情移入を促すという、その方法が秀でている。ガボレイ・シディベの圧倒的な肉体性を目で見せ、彼女の心理はヴォイスオーバーで語られるのだが、開巻時点ではこの両者は乖離している。教室ではほとんど口を聞かず、家でもモニークに逆らうことはせずに、簡単な返事をするだけ。アパートに訪れた女性校長を"white bitch at school"と呼ぶ悪言には呆れるが、これも母親の悪影響なのだ。

このボキャブラリーの貧困さ、強烈に抑圧された自己の精神性、それを振り払うがことく、ヴォイスオーバーでその思考が観客にオープンにされるのであるが、厳密にいうとこれらのシーンはモノローグではない。喋り方と言葉の使い方が決定的に違うのだ。

映像としてのシディベは、ほとんど喋らず、口を開けば母親譲りのスラングばかり、その発声もモゴモゴとして大変に聞き辛い。ポーラ・パットンとの一対一の識字チェック("A Day at the Shore")はまるでヘレン・ケラーの物語のようだ。

対して、彼女のヴォイスオーバーは詩的であり、その観察眼や感受性からは豊かな知性を感じることができる。プレシャスは愚かではなく、内に豊穣な人間性を秘めている人物であると、早い段階から観客に理解させているのだ。彼女のこの潜在的な知性は強さである。ただ境遇が機会を奪っているだけだ。だから憐憫などこれっぽっちも沸いてこない。画面に映るシディベと、彼女が語る心象との落差が、ストーリーが進むにつれ徐々に一致していく。この過程が、リアリズム溢れる伝記映画のように見えてくる。

もうひとつ、このヴォイスオーバーの使い方の面白い例を挙げておきたい。序盤の教室のシーンで、プレシャスは数学教師に淡い恋心を抱いていることが明らかにされる。白人および父性への憧れが見られるが、それはそれとして、プレシャスの恋愛感というものが巧妙に演出されていることは特筆すべきである。

校長の家庭訪問を受け、EOTO(代替学校)への転校を通告されたその日の晩、彼女は念入りにヘアースタイルを整えている。そして翌朝、しっかり化粧をし、アクセサリーのチェーンネックレスをし、お気に入りの赤いカチューシャをつけて出かける(赤はプレシャスの情熱と希望を表す色として繰り返し現れる)。

ホテルの上階にあるEOTOの受付でのやり取りで、プレシャスはなぜか怪訝そうな、がっかりしたような顔をするのだが、これは理想の白人男性教師が自分を救い出してくれるのではないか、という願望が失望に変わったときの表情である。

ここがうまい。なんでもかんでもヴォイスオーバーで心象描写をするのではなく、ちゃんと画だけで見せるべきところをわきまえている。この使い分けの基準は「愛」である。プレシャスが本当に必要としているものは広義の愛であり、それは親子であったり、恋人であったり、師弟であったりするのだが、それらはすべて映像としてのみ描かれ、ヴォイスオーバーで具体的に説明してしまうという愚は犯していない。

そういう目で他のキャラクターを眺めてみると、「言葉」と「心」が、あるシーンのあるキャラクターでは一致していたり、あるいはしていなかったり、といった繊細な使い分けがされていることがわかる。マライア・キャリーは誠実だが、その心はあくまで事務的な職業倫理なのか、それともプレシャスへのシンパシーに傾いているのか、このあたりの対話のプロセスも刺激的だ。これらは人物に裏表があるということではなく、どちらもそのキャラクターにとっては真実の姿であるから、モニークの最終弁論もあれほどパワフルに伝わってくるのである。

もうひとつ面白いのは性的、肉体的な仄めかしである。はっきり描かれる近親相姦は別にして、ポーラ・パットンと同棲している恋人の存在というのがひとつ。より細部に目を転じれば、妄想シーンにおける異性との肉体的な触れ合いもそうだ(なんと抑圧されていることだろう!)。また、課外授業で美術館を訪れるシーン、クラスメイトの白人少女(ヤク中で学校を追い出された彼女だ)が、展示品にたじろいで思わずシディベの手を握るカットがあるが、ここには複雑なニュアンスが含まれている。プレシャスにとっては、人種や性別を越えた、人間と人間の一瞬の肉体的な触れ合いによる新鮮な驚愕があったのだ(自分は他者にとって必要な存在なのかもしれない、という実感)。

撮影、構成、編集のうまさについても触れておきたい。前記した、序盤での女性校長とシディベ、モニーク三者のカット割りや、ポーラ・パットンの登場シーンである自販機エリアと廊下の空間を生かした長回し、終盤でモニークがテレビを投げ落とす前後のシークェンスの編集("Oh Happy Day")など、随所に職人的という以上の芸を見せてくれている。情緒的かつ陳腐な言い方しかできないが、創作者の熱意が見る者の喜びと直結する、素晴らしい映画であった。

(評価:★5)

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