[コメント] 川の底からこんにちは(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この「ドラマ的運動性」の欠如を劇伴が健気に補おうとしているのが痛々しい、というか痛い。そう聞こえてしまうのは、満島という存在がシリアスすぎてユーモアがユーモアに昇華せずドラマがドラマとして駆動しない齟齬による。
満島が従業員のオバサンたちの前で演説をぶって彼女らを一気に仲間にしてしまうシーンは、満島の必死さに殆ど狂気さえ感じさせられてしまい、シーンが要請しているはずの笑いだとか共感は全く覚えない。この後のオバサンたちの手のひらを返したような態度の変わりようや、しじみ工場の再建が、手抜きというしかないような省略で描かれていることなど、観客が劇中の世界に付き合うことを拒絶しているのかとさえ思えるような安直な処理に腹が立つ。
タイトルバック直前のカットで満島はトイレに座りながらも個室の外の同僚に反論しようとして必死にトイレットペーパーを取っている。こうしたシーンにクスリとさせられ、笑いのセンスを全く認めないわけにはいかないのだが、笑えるはずのシーンが概ね、却って苛立ちを覚えるシーンと感じられてしまったので、あまりこの監督とはセンスが合わないのだな、と。「抱いてくれ」とかいった台詞の言語的センスは好きなのだが。トイレといえば、実家に帰った満島が「昔からやっていた」という肥料撒きをするシーンが何度かあるが、こうした下品な描写で底辺さを描く手法は好みではない。この肥料撒きが行なわれる草叢に徐々に花が咲いていくなどというのも、花が咲けば満島の人生にも花が咲くかのような映画的安直さが鬱陶しい。シモつながりでは直腸洗浄や、子どものお漏らしを処理させられて小便臭くなるシーンもあるが、社会に対して何やらメッセージ的なものを発信するつもりなら、OL生活のディテールを描くのが筋だろう。
監督は、自分が考える「粋」を描こうとしていたらしいのだが(インタビューでそう話している)、粋というよりは、空疎さが設定された世界観のなかで瞬間的なユーモアを閃かせることを繰り返すばかりで、粋がどうこうと言う以前に、徹底的に内面性を排した表層性の構築が、どこか黒沢清的な死相を呈している。勿論、黒沢作品ではそれは作品を成立させるものとして肯定されるものなのだが、石井裕也が図らずも実現してしまったその乾いた画面は粋というより単に厭味である。満島の吐き捨てるような台詞回しも、作品自体にぞんざいな印象を加えてしまう。
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