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[コメント] ぼくのエリ 200歳の少女(2008/スウェーデン)

日中は雪に覆われて風景が白に支配される。夜は黒い闇。建物の外観や内装も、いかにも北欧的な簡潔さで、故に「赤」(それは血に限らない)の鮮烈さが際立つ。冷たく乾いた美と、善悪の彼岸で為される愛。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「赤」はオスカーやエリが身に着ける衣服の色としても現れるのだが、やはり最も印象的なのは、ラストカットで列車の席に置かれたバッグの赤。オスカーの白い肌と対照的な赤い唇も鮮烈。エリよりも彼の方が吸血鬼然としているようにも見える倒錯性が、吸血鬼に魅入られていく彼の在りようとも重なり合って面白い。

エリと暮らす男が血の採取に失敗し、被害者を逆さ吊りにしたまま逃走するシーンは、彼を見つけて吠える犬が、雪と同じ真白な毛で覆われていて、殆どモノクロのような簡潔な色彩が美しい。と同時に、男が犬と共に収まっているカットは、引きのショットであることや、男の焦り、犬の丸く刈られた毛と真丸い目などが相俟って、凄惨な筈でいながらどこかコミカルでもある。男が去った後、飼い主の女性が呆然と立ち尽くす中、犬が残された血を舐めるという箇所も、乾いた可笑しみを感じさせる。

この男が次の犯行を試みるシーンでは、無人と化す建物内の電灯が次々に消され、闇が訪れる。闇が印象的に画面に配されるシーンは全篇に渡るのだが、特に、エリに噛まれて吸血鬼化が進行している様子のイヴォンヌが、猫を大量に買っている男の部屋を不意に訪れるシーンでの、引きのショットの中、彼女が後ろ手でスイッチを切って小さな闇の空間が現出する瞬間のサスペンスは見事。また、オスカーが終了後の教室に少し残ってモールス信号を書き写しているシーンでは、彼が独り、教室の電灯のスイッチを切るまでをわざわざ写している。

血液採取男の劇中、第二の犯行は、逆さ吊りにした男を殺すところにさえ達しないのだが、被害者の友人が現場に踏み込む様を画面の右側、座り込む男を画面左に配した画面構成は、この男がエリ自らによる殺人を批難するのを画面左側の部屋にいるオスカーが耳にするシーンでの、建物の外から二つの部屋の窓を捉えたショットを想起させる。つまり「隔たり」の演出。このシーンではオスカーが壁に耳を澄ませて手で触れるカットも挿まれ、後のモールス信号を予告している。「隔たり」を越える小さな声としてのモールス信号。ラストの、スーツケースか何かの中に入っているらしいエリとの交信も、人間界に居場所の無いエリとオスカーの関係性を感じさせて、恐ろしくも切なく、そして少しユーモラスでもある。

エリが病院の、またオスカーの部屋の窓の外から「‘入っていいよ’と言って」と求めるシーンや、玄関でオスカーに同じ言葉を求めて拒絶され「壁なんて無いよ」とオスカーがパントマイムのように壁に触れる仕種をするシーンでの、エリの流血によって「見えない壁」の存在が実証されてしまうこと。「入っていいよ」と許されなければ人間の生活空間に入れないエリという存在の哀しさ。思えば映画の冒頭も、裸で独りでいるオスカーを、少し曇った窓ガラス越しに捉えたショットで始まっていた(それに更に先立つ、映画のラストと円環を成す、夜の闇に降る雪のショットがまた美しいのだが)。

エリと同居する男が、近所の男たちにバーで見かけられた際、「あいつを席に呼ぼうか?」「おごらせようぜ」「それなら大歓迎だ」などと、内気そうな男を餌にするような台詞がやり取りされる。どこか、苛められっ子のオスカーと境遇が似ているようにも見える。だからこそよけいに、オスカーの行く末がこの男とシンクロして見えるのだが、一見するとエリに食い尽くされて終わったように見えるこの男は、だが不幸にも見えないのだ。彼がオスカーと同一化して見えるだけに、その顔に刻まれた年月や、それを更にエリの為に自ら酸で焼いた酸鼻な様が、なおさら切ない。

一方、エリを殺そうと復讐を誓う男もまた、親友を殺され、「俺にはもう何も無い」と嘆いていたところで、更に女まで餌食にされてしまう、哀しい存在でもある。エリはオスカーに「相手を殺してでも自分が生き延びたいと思うでしょう?私もそれと同じ」と言う。吸血鬼というエリの正体に嫌悪感を示すオスカーにしても、冒頭からナイフを手に、『タクシードライバー』めいた対峙のシミュレーションをしていたし、苛めっ子を打って流血させもしている。つまりは、劇中の人物全ての行動は善悪の彼岸にある。

それは、弟がオスカーに棒で耳を打たれた復讐をする少年にしても同じなのかも知れない。弟というより自分の名誉の為とも解釈されかねないが、予め、弟と無邪気にふざけあうシーンを入れることで、彼が弟思いであろうことをそれとなく示す周到さがこの映画にはある。皆が、生きる為、愛する者の為に行動する。それが互いに相容れず、殺し合いにさえ至るという悲劇性。それが、飽く迄も日常的な光景の中で展開するので、その感傷性は画面のこちら側と地続きの世界として感じられるのだ。だからこそ、プールに沈められたオスカーを捉えたカットの上方でエリによって行なわれる殺人の凄惨さは、エリとオスカーの間に流れる優しさの表れでもあり、複雑な陰影をもって胸に迫る。

エリが吸血鬼だと知ったオスカーが、エリを避けるようになるシークェンスでは、母と笑顔でふざけあって歯磨きをするシーンがあるが、エリの吸血鬼としての獣性は常に、口許にジャムのようについた血で示されていたのであり、それを拭い去るかのような歯磨きが哀しいとは言えないだろうか。オスカーはこの母に、学校での苛めも相談できず(苛めっ子の方は「こいつのママに叱られるぞ」といって逃げ出しもするのだが)、復讐としての暴力沙汰で母に怒りと心労を与えもし、そのシーンでも母の前で父と電話しながらも、自らの暴力沙汰とはまるで無関係な話をして電話を切るなど、父との間の方が親密なように見えたのだが。父の家に行くことで学校での嫌なことを忘れていたようにも見える。

この父とオスカーが遊んでいたところに、父の同性の恋人と思しき男が訪れ、ゲームが中断され酒が飲まれる(つまり子供は排除される)こと、男が「ここは居心地がいいな」と繰り返すことで却ってオスカーは居心地が悪くなること、無言と化したシーンに感傷的な音楽が流れることで、全篇を支配する静謐さが更に極められていくことなど、ほんのワンシーンをとっても、その演出力には唸らされる。音楽は、決して名曲というわけではなく、むしろどこかで聞いたような曲調でさえあるのだが、全篇の静謐さと切なさをそのまま音として鼓動させているようなマッチ感が実に効果的。

エリが、父を案ずる少女としてさり気なく病院を訪ねた直後、その外壁を這って上る光景を引きのショットで見せる演出は、『エクソシスト3』を想起させられる。病床のイヴォンヌがカーテンを開けて光の眩しさにひるむシーンの光の強烈さや、彼女がブラインドを開けさせて炎上するカットの驚きと、そのカットを潔く断ち切る編集センス、苛めっ子の兄の復讐の際、教師を引きつける為に再び「炎」が画面に現出するなど、厭味のない巧さが炸裂するシーンが多いのが好ましい。

それにしても、作品の内容そのものを改竄してしまうボカシにはただただ怒りしか覚えない。『エンター・ザ・ボイド』でのボカシといい……、やはり映倫は一刻も早く滅ぼされるべきであると確信した。また、赤い戦車氏の仰るように、邦題の「少女」は更に作品を改竄している。このような、本当に作品を観たのかと疑いたくなるような邦題が付けられてしまうパターンも時折見かけるが、そうした無神経な毀損行為も映画界から徹底的に排除してもらいたい。邦題といえば「200歳」というのも劇中の台詞にあっただろうか。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)irodori[*] プロキオン14[*] 袋のうさぎ セント[*]

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