[コメント] ペルシャ猫を誰も知らない(2009/イラン)
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『酔っぱらった馬の時間』から一貫して、バフマン・ゴバディは地域と時代に特有の問題から物語を出発させながら普遍的な映画を目指している。ここで「普遍的な映画」とは「いつ・どこで・誰が見ても面白い映画」という意味である。あるインタヴューにおいてゴバディは「物語の九五パーセントは事実」などと語っているようだが(額面通りに受け取るべきではないリップ・サーヴィスの類だとは思いますが)、仮にこれが一〇〇パーセントのフィクションだとして、あるいはイランの体制や文化政策が変わって自由に音楽が演奏できるような時代が到来したとして、この映画の面白さはいささかでも減じる性質のものだろうか。違う、と私は思う。主人公ネガルとアシュカンのバンドメンバー探しを口実に「イランのバンド紹介」を正当化する作劇ひとつを取り上げても、ゴバディに「いま・ここを記録する」というドキュメンタリ的動機があることは否定できないが、『ペルシャ猫を誰も知らない』の面白さはあくまでも商業映画・劇映画の面白さである。文化的抑圧政策を告発するドキュメンタリを気取るつもりならば、そもそも「シネマスコープ」「ドルビーデジタル」などというスペックは積極的に不要のはずだ。もしくは忘れ難く感動的な「バイク三人乗り」シーンを挙げてもよい。中心的被写体たるバイクの画面内ポジションおよびアクションの連続性を保持したまま背景だけが移り変わるという、カッティング・イン・アクションとジャンプカットを折衷したかのようなカット繋ぎの高度な達成は、現代ハリウッド映画のほとんどを凌駕する高品質の劇映画性を示している。
いたずらにこの作品の劇映画性ばかりを強調するつもりもないが、それはやはり編集点において著しく顕在化する。カット繋ぎに関してはもう一点だけ触れるに留めておくけれども、それは終盤でネガルの心配をよそにアシュカンがパーティ会場に足を踏み入れる際の、両者の切り返しだ。「もうこの映画において彼らが再会することはないだろう」という決定的な別離の感覚を刻んだ画面であり、カッティングである。このような感覚を体験したことがかつてあっただろうかと個人的映画史を振り返ったときに浮上するのは、クリント・イーストウッド『チェンジリング』だ。
さて、確かに悲惨であるかもしれない物語を持つこの映画が同時にどうしようもなく愛すべき映画であるのは、そこに笑いが溢れているからだ。主に正真正銘の俳優であるハメッド・ベーダードが演じたナデルというキャラクタが映画のユーモアを率先するが(取調べシーンの独壇場!)、私はこのナデルが愛しくてたまらない。はじめネガルが出国の手配を頼んでも「餓鬼の反抗だろ」と取り合わないが、それが音楽のためだと知ると掌を返したように積極的に協力してしまう。また彼は相当の映画好きでもあるようだ。音楽と映画とユーモア。それらは私が私の生(もちろん彼らほど苛酷なものではないけれども)を生き抜くために必要だったものだ。やはりこの映画は他人事ではない。
主人公を他者や状況に振り回させ、そこに人を喰ったようなユーモアをまぶす。その方法論は師匠格のアッバス・キアロスタミと共通するが、ゴバディのほうがキアロスタミよりも「あからさまに」優しい(キアロスタミの優しさはときに悪意と見分けがつかない!)。それは主人公たちに与えられた「笑顔」にあらわれる。たとえば、ネガルが偽造パスポート屋に値づけの根拠を問うシーン。偽造屋の爺さんは「石油の値段が上がればパスポートの値段も上がるんだよ。戦争とかでね」と分かったような分らないようなことを云い、続けて「上がる上がる、どんどん上がる」とか何とか即興で歌いだしてしまう。爺さんもすぐに「ふざけてごめん」と謝るが、ネガルはここで笑顔を見せている(可愛い!)。この笑顔がゴバディの優しさだ。キアロスタミの厳しい優しさを愛してきたように、私はゴバディの優しい優しさも愛したい。
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