[コメント] 十三人の刺客(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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悪逆非道の限りを尽くす斉韶だが、彼が千世(谷村美月)を犯し、その夫(斎藤工)を彼女の眼前で、刀で刺し貫いて殺すという具体的な行為に至る前に既にこの映画は、老中(平幹二朗)らの陰鬱な様子によって斉韶の存在を浮き上がらせ、画面の暗い色調と共に斉韶の人物像を予告する。だからこそ、稲垣の冷たい無表情に凄惨さをより際立たせることにもなる。
斉韶が、襲撃を受けて却って喜び、「戦国の世とはこのようなものであったのだろうか」とうっとりとする様子からは、彼は太平の世という間違った時代に生まれたが故に自分を活かすことが叶わず、故に理不尽な暴力に走っていたのだろうかとも思え、一抹の哀しみさえ過ぎって見える。戦国の世に生まれていたなら、織田信長のような改革者として評価もされていたのかも知れない、といった、彼の奥行きを感じさせる台詞だ。それに続く「いいことを思いついた。私が老中になったなら、再びこの世に戦をもたらそう」は、彼の心境からすれば当然に出てきた台詞であると同時に、一瞬彼に僅かながらも同情してしまった観客を、やはり斉韶は討たれるべき人間なのだ、と、映画の本筋に戻す。
斉韶の「侍というものは主君の為に命を投げ出すものではないのか?」という、武士道の美学を逆撫でするような言葉に、結果的には鬼頭半兵衛(市村正親)は完全に忠実であり、生真面目さゆえに狂気の沙汰を正気で行なっているような捩れた人物像に接近しており、面白い。島田新左衛門(役所広司)へのライバル意識などというものはこの際抜きにしてほしかったところだ。新左衛門も「天下万民の為」として、全てを擲って狂気の沙汰の闘いへと身を投じているのであり、その二つの「武士道」が激突するという、侍の美学の倒錯的な自己完結性というものに撤してくれた方が、僕としては好みに合っていたかなとも感じたのが正直なところ。
この二つの武士道にしても、斉韶の「暴君」としての存在があればこそ成立するのであり、またこの映画そのものも、「悪役」としての斉韶を前提としている。彼を討とうと一命を捧げる侍たちの気概や、知略と肉弾戦に粉骨砕身する姿がもたらす感動、斉韶が討たれることのカタルシス等は、絶対的な否定の対象としての斉韶の暴力を必要としている。血沸き肉躍る戦闘が開始されるや斉韶が、何か憑きものが取れたようでさえある、晴れ晴れしいまでの表情を見せる様は、殆ど観客の欲望へのメタな言及でもある。
悪と正義の共犯関係というと『ダークナイト』を想起するが、あちらは正義がいるから悪が登場する構図で、悪によって正義が立つ本作とは逆であり、正義の側に倫理的な葛藤や苦悩が生じる必要が無いので些か陰影を欠く。その点はこの作品に対して特に求める気は無いのだが、ジョーカーと比べるまでもなく、稲垣の演技はそれひとつで禍々しい世界観を醸成する存在感はほぼ皆無であり、まだまだ物足りない。
また、新左衛門は、自らも釣りの極意として「獲物がかかるまで待って引き上げる。ただそれだけだ。だがこの簡単なことがなかなかできん」と語り、半兵衛からは、特別に切れ者でもなければ、圧倒的に強いわけでもないが、粘りに粘り、最後には僅かな差で勝つ、と評されているのだが、その割には、宿場町での決戦では早々に「小細工」を捨てて斬り合いに突入してしまう。斉韶の大名行列のルートを予測し謀をめぐらせながらも、決定的なところでは、多勢に無勢であるが故に賭けに出る大胆さも持ち合わせている半兵衛なのだから、決戦でも、柵や橋爆破などで敵方のルートを予測し妨害しコントロールするその知略に於いてもう一度、緻密かつ大胆な賭けを見せてもらいたいところ。
更には、完全に物量作戦に出た演出の割には、積み上がっていく死体や流血をスペクタクルとして見せるカットが少なすぎる。反面、爆薬によって降る血の雨という、ケレンミが先行したような演出が見られるなど、微妙なところでバランスがおかしい。火を背負わされて暴走する牛の群れもCGだと一目で分かるので却って興醒め。なにもタルコフスキーのように本当に生きた牛に火をつけろと言う気は無いが。
山に住み、侍でもない小弥太(伊勢谷友介)が「侍の喧嘩」に加わろうとする様は『七人の侍』の菊千代を彷彿とさせるが、農民の出でありながら、侍たちが救おうとしている農民たちの卑怯さや下劣さを捲くし立てる菊千代のトリックスターぶりに比べると、斉韶の投げた小太刀を受けながらもなぜか死んでおらず「熊に比べたら大したことねえ」と平然と豪語する彼は、遂に刀を手にすることなく手製のハンマーで闘い抜いたことも含めて、「喧嘩」の渦中に参加しつつも徹底して侍たちの闘いの蚊帳の外に居る。肉体的には参加していても、イデオロギー的には一切関わりが無いということだ。映画的には絶対に死んでいるシーンを演じながらあっさりとラストシークェンスで復帰する小弥太の、殆ど映画の結構を破壊しかねない在りようは、侍に対してというより「侍映画」そのものに対して外在的にも見え、その点では、「武士道」を都合のいい玩具として振り回しつつ娯楽としての暴力に酔う斉韶と、対照的でありながらもそのメタ的位置を共有しても見える。
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