[コメント] ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「廃墟」は映画的である。映画とは空間表現媒体であり、廃墟とは屋内でもあり屋外でもあるような特異な空間にほかならないからだ。ここで「映画」の側から「廃墟」の定義を試みれば、それはすなわち「屋内性と屋外性が拮抗した空間」となるだろう。どうしてそのような特異な空間が現出するのか。それは「壁」「扉」「窓」「天井(屋根)」が損なわれ、ひと続きの広大な空間が実現するためである。ここで壁・扉・窓・天井(屋根)とは空間を区切るもの、すなわち空間を分節化する機能を指す(これはまた「なぜ映画において壁・扉・窓・天井(屋根)の扱いが重要なのか」という問いに対する最も簡潔な答えともなるでしょう。天井と窓に関しては照明設計の問題とも深く関連しますが)。建造物において空間の分節化がじゅうぶんに果たされないとき、それはひと続きの相貌を獲得し、屋内性と屋外性が拮抗する。したがって「倉庫」「工場」「体育館」のように元々広大なひと続きの空間を有した建造物は、ほんの少し手を加えただけで「映画においては」廃墟となってしまうだろう。たとえば、黒沢清『大いなる幻影』における郵便局や『叫』における警察署はそのような危うい空間としてある。
さて『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』に話を戻せば、樹海の奥に潜む石切り場が廃墟であることは云うまでもない。まるで古墳の石室のように禍々しく、霊的で、どこか聖的でさえあるこの空間を存分に使ってクライマックスが演じられる。照明の組み方も衝撃的に凄まじく、さらには雲母(?)まで降り注いでしまうというのだから、こちらとしては呆然と見惚れることしかできない。そして、上で試みた定義に従えば、竹中の住居兼事務所がその廃墟性において石切り場と通底する空間であることはもはや明らかだろう。照明に目を転じても、幻想的に煌めくネオン管が石切り場に差し込む光のこの世ならざる佇まいを導き、またそれが最終シーンにおいて白く光る窓に引き継がれている、と云うことができる。
廃墟映画としてこれは掛値なしの傑作だ。なんだそんなことか、とお思いになる方も多いかもしれないけれども、映画をとりわけ空間表現として享受する観客からすれば、この作品は事件である。
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