[コメント] 海炭市叙景(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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存在をしらないものを待つわけにはいかない。かつて「何か」を知っていたからこそ、人はそれを失った(もしくは失ったと錯覚した)時に、「何か」が再び訪れるのを待たずにはいられなくなる。だから、これは虚無ではない。切実なのだ。
かつて知っていた「何か」とは、ここでは、船の威容であったり、ドックの活況であったり、街のにぎわいであったり、8ミリ映像、つまりは「おもいで」である。しかし、「おもいで」は過去のものに過ぎず、それがそのまま再び訪れることはない。しかも、老婆が回顧する街に「それ」があったのか、「それ」がほんとうに幸福と呼ばれるものであったのかは必ずしも語られない。また、プラネタリウムのエピソードで小林薫が呟く「にせもの」や「ほんもの」という単語が余韻を残す。「それ」が確かなものであったのか、あやふやであいまいなのだ。
これに対比するかのように、「太陽(初日の出)」はまた淡々と変わらずに、そして「たしかに」昇るのだが、この残酷性を指し示す冒頭の挿話が素晴らしい。
「生活」を描くと、脱出とか粘着とか、埋没という虚無だのがテーマになりがちだが、それは戯画の世界であり、ほんとうに切実に描かれるべきは、この「待つ」という空気であったろう。初日の出をみる竹原と谷村の視線がいいのである。未来を見るのも過去を見るのも苦しい、でも太陽を通じて「何か」を見ようとする女の、そして「何か」を見ることをやめてしまった男の視線が、いいのである。痛いからいいのである。「いい」なんて言うとおかしいのですが。
痛むからこそ、人はまた待つのだ。求めることを時代が許さなくても。待つことすら禁じられたら、一体どうすればいいのだ?
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