[コメント] ソーシャル・ネットワーク(2010/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
成功者を題材にした映画ジャンルはだいたいパターンは決まってる。
才能ある人物に何らかの契機がもたらされ、その才能を開花させて栄光を手に入れる。そして絶頂期に人間関係がぼろぼろになって、転落していく。時としてそこからの再生を描くことになるが、ほぼどれを観てもこのパターンに則った話が作られている。 本作も一応その文脈で観ることはできる。プログラムに関しては天才的な人間が、一つの契機(双子の示唆)によって栄光を得る。そして人間関係が壊れて、昨日の友が今日の敵になる…枠組みだけ見たら、まんまとも言える。
これでレビュー終わってしまうと、本作は「よくある作品」で終わってしまうが、枠組みこそ同じにせよ、本作はなんか違って感じる。パターンに押し込めることができるのに、そうするとなんかしっくりこない。そんなもやもやした感情を視聴後に感じる。
では、改めて分析してみよう。昔から作られてきたサクセスストーリーと本作はどこが違うのだろう?
そのためまず、本作における“栄光”とは何だろうか?と考えてみたい。
目に見えるものとして表されるのは、彼が作ったプログラムであるフェイスブックに次々入会者が現れ、世界最大のSNSに成長したこと。そしてその結果今や大金持ちになったということ。この二つだろう。
しかし、それだけ拡大しているのに、ザッカーバーグの顔色は終始変わらなかった。実際最初に恋人のエリカと振られている時と、ラストでそのエリカのフェイスブックページをリロードし続けている姿は、様々な危機を乗り越えてきた割には全くと言って良いほど変わりがない。
この点が他の多くの伝記作品とは異なるところだ。通常どの作品であっても、栄光と転落(あるいは栄光のみ)を経て、主人公の顔つきは次々に変わっていくものだ。伝記作品を作る際、役者の実力を計るのに、その表情の変化が重要なのだが、本作の場合、敢えてそれを捨てている。むしろ表情を変えない事自体を映画の目標としているかのようだ。
これは、全く新しい、現代的な伝記の作り方と言ってしまっても良いかもしれない。ザッカーバーグの栄光とは、自分自身が何かをしたのではなく、それはあくまで画面の向こう側の話であり、ザッカーバーグ自身もこれがゲームの延長に過ぎないことをよく知っている。フェイスブックが流行して楽しんでいるのは、ゲームをやって困難なクエストをクリアしていくことと何ら変わってないのだから。
彼にとって、これは画面の向こう側の出来事であり、ただ自分はそのために努力しているだけに過ぎない。その結果、どれほどの富がもたらされても、それ自体に何の魅力を感じてないのだから。
むしろ彼にとって、最大のクエストは恋人のエリカを再び自分に振り向かせることだったのだろうが、最も重要な目的は最後までクリアできずに終わってしまってる。いや、彼は今もそのクエストの途上だと思っているのだろう。
だからこそ彼は顔つきが終始変わらない。もしエリカが本当に振り向いてくれた、その時にこそ、本当に変化する時なのだが、それが叶えられないまま物語は終了してしまう。
だけど、この方法ではその目的を叶えられないと言う事を最後までザッカーバーグは悟ることが出来ない。もし本当にこの物語が終わる時があるなら、なりふり構わずエリカにすがりつくシーンで終わらねばならなかったはずなのだ。
そして、それをしなかった所に、本作の本当の面白さがあるのだ。いわば中途半端こそが、この新しい伝記物語の最大の魅力であり、その点にこそ最も感情移入できるのだから。
これ一発で終わりかも知れないけど、完全に新しい伝記物語を見せてくれただけで充分満足した。
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