[コメント] 浮雲(1955/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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水木洋子は本作を自分の代表作とは思っていなかっただろう。彼女が原作に施した事柄はふたつ。ひとつは長編を手際よくダイジェストにしたこと。後ろ向きの機知と諧謔の数珠繋ぎな科白はほぼ原作の丸写しである。善人である加野(映画では金子信雄)との三角関係を省いて殺伐さを増したのは彼女の手柄なのかも知れないが、落差が喪失されたとも見える。
細部の圧縮は致し方ないが映画を淡泊にしている。ダラットで富岡(森雅之)と色目を交わすベトナム人の女給仕を、原作未読の観客は見逃すだろう。この辺りは脚本家のイタズラに見える。原作では富岡は彼女を孕ませたまま日本へ帰るのだった。一方、親切にされた鹿児島の医者大川平八郎にゆき子(高峰秀子)は抱かれる夢を見る。ゆき子も富岡同様、一筋縄では全然いかないのだが、この視点も略されている。
もうひとつはラストを悲恋にしたことだ。原作ではゆき子はひとり血を吐いて死に、富岡が小料理屋で新しい女を引っかけた処で小説は終わる。この冷淡さでもって小説の主題は突き抜けている。裏返した宗教文学であり、蝮のからみ合いなモーリアックに近い(何度も聖書が引用され、ほんの一度だけ富岡は「もう一度、我々を誕生させて下さい」と祈る)。映画はこれを積極的に通俗にしている。現代の近松だ、という褒め方はなるほどとは思うけど、それは森も凸ちゃんも善人、戦争被害者になっちゃっている証拠でもある。小説ではふたりとも業に縛られた「悪魔」、戦争加害者である。
本作を「映画が小説を超えた」とオヅが讃えたという有名な話があるが、だからそうは思われない。本作は当時権威だった朝日新聞の映画欄が後ろ向きと批判し、それに反発するかのように映画界が挙って褒め上げた作品だったらしい。その朝日の記事は読んだことがないのだけど、まあ杓子定規なものなんだろう。しかし、私見ではナルセは隠れ社会派であり(オヅなら新興宗教の教祖を「気合いの上手い」元陸軍参謀に設定したり、デモ風景をインサートしたりは絶対にしないだろう)、無論、水木も社会派である。その手綱を緩めた本作が高評価というのは、社会派の私としては何か違っちゃっているの感が強い。
本作は本来、植民地小説、植民地映画だ。敗戦で天国ベトナム(仏印)を失った男女が、運命の悪戯から再度南方を目指して果たせぬ話である。今や屋久島は国境の島で、その先へは行きたくても行けない、という地政学が肝なのだ。小説では強迫観念のようにベトナム、ダラット(今やリゾート地らしい)が回想され続ける。バナナもマンゴーも日本では食べられない時代の話である。林芙美子は従軍記を先頭きって書き続けた作家であり、明らかに戦後の苦渋がゆき子に反映されている。この視点が映画では見えにくい。
なぜゆき子は死ぬのか。神様の金を盗んだから罰が当たって死ぬのだ、と取るべきだろうと思う。大日向教なる詐欺の新興宗教のあぶく銭だから盗んでいいのだ、とゆき子が自分の盗みを正当化するとき、それなら金は騙された信者に返済されるべき、と彼女は思い至らない。だから作者は彼女を罰して殺す。ゆき子は東京裁判を報じるラジオに耳を傾けている。林芙美子はこの自分の分身を、国民を騙した戦犯として罰している。この視点も、映画ではメロドラマ化によってほとんど失われてしまった。
ホン以外、映画としては極めて緊迫した作品であり、ナルセの代表作のひとつとするのに異論は全然ない。美術はもの凄い蕩尽ぶりで、伊香保の坂も全部セットじゃないんだろうか(そうでなければあのアングルで移動撮影はできないだろう)。子供が三輪車乗っている三和土の広い森のアパートが妙に忘れ難い。凸ちゃんは絶好調で、引退決意作、減量貧血中の凄味がある。鹿児島で寒気がすると火鉢を抱えるとき、背中をぶるっとひと震えさせる。これなんか、『小島の春』の杉村春子の背中の演技に感銘を受けた彼女の精進の達成と思う。風邪を引いた人の背中はあのよう波打つものだと引きつけられる。ここから以降は神憑りのトランス状態。雨が凄い。小説は「雨音で耳の中まで濡れてきた」と抜群の描写をするのだが、映画の湿気蔓延はこれに拮抗している。
吉永小百合が凸ちゃんへの尊敬から本作のリメイクを断った逸話が美しくて好きだ。原作ではゆき子は三宅邦子に似ていると云われ(林芙美子の自己評価だと思うと可笑しい)、本人は山田五十鈴のような美人だったら良かったのにと嘆く。比べれば凸ちゃんは美人に過ぎるが、そこであの濁った鴉声(と太宰治が評した)の抑揚がとても効いている。彼女は美声だったら大女優ではなかっただろう。
ただ、演出面で云いたいことがふたつ。ひとつはダラットで森の前に登場するとき、ただの農林省事務員である凸ちゃんがドレスを着ているのはリアリズムに反していておかしい。こんな基本的なことをナルセが外す訳がなく、なぜなんだろう、仏印の天国を夢想として強調したのだろうか。もうひとつは、屋久島に向かうふたりが漁船の甲板で雨を浴びる有名なカット。こちらは明らかに悲劇の強調だが、実際は当時も客船が通っていたのだからやり過ぎ、屋久島に失礼だと思う。そんなこと、ナルセは屁とも思わなかっただろうけど。
森も富岡の、その場その場では真面なのだが全体通じては分裂している仕方のない男を造形してひとつの典型たり得ている。助演の立場弁えた岡田茉利子のぬめっとした不気味な造形は流石、いい俳優は脇に回ると上手さが際立つ。山形勲の出鱈目なお祓いは爆笑もの。これをベストショットにしたいぐらいだ。音楽はややベトつくが、中近東風なメロディがベトナムの天国をふたりに回想させる趣旨のものであり、とても効いている。
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