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[コメント] 八日目の蝉(2011/日)

理性を超えた感情の物語なら、感動を売るあまたの映画がそうするように、ひたすら感情を煽ればことは済む。これは本能の物語だ。心地よく楽しげですらある楽曲を始め、過剰さを周到に排し冷静に感情と対峙する奥寺脚本と成島演出の視線の先に女の本能が見えてくる。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この本能を人は「母性の純粋形」と呼ぶのかもしれない。しかし、男の私には、ここに描かれた女たちの理性や感情を超えた先にある「何か」が母性なのかどうか、実はよく分らない。例えばポン・ジュノが『母なる証明』で描いた、母性愛と異性愛の混沌とした息子への感情のように目に見えるカタチとして示されたときに、やっと私はそれを「母性」だとして認識できる。

本作では女から女へ本能として引き継がれていく「何か」が描かれている。子供が生めなくなった希和子(永作博美)は、その「何か」が引き継げなくなったことに悲嘆し、それを伝えるべく本能に突き動かされるように乳児をさらい、幼い恵理菜(渡邉このみ)とともに過ごすことで心の平穏を取り戻した。あるいは実母(森口瑤子)と幼い恵理菜(渡邉このみ)の衝突は、その「何か」が上手く伝わらない、そして受け取れないという本能の確執に他ならない。成長した恵理菜(井上真央)は、引き継がれるべき「何か」があることすら知らない(それは故意の忘却かもしれない)女になっていた。

島の写真館で、希和子(永作博美)から幼い恵理菜に「何か」が手渡される行為が象徴的に描かる。その記憶とともに、自分のなかにも確かに「何か」が存在していることを恵理菜(井上真央)ははっきりと自覚する。それは、理性を超え、さらに感情をも超えた末に立ち現れる本能としての「何か」だ。確かにこれこそが母性なのかもしれない。だがその本能を「いつくしみ」と言い換えてみたときに、この〈難解〉な女たちの話しが、男の私にも理解できたような気がした。

(評価:★4)

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