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[コメント] 八日目の蝉(2011/日)

全篇、演技の熱を湛える画面の充実度に、長尺を忘れる。だが、この特殊な状況を通して「家族」像を問うような批評性は弱い。また、何か「画作り」を工夫することに禁欲的なのか無頓着なのか。特にこれは「風景」の強度を必要とする物語だったのだが。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「八日目の蝉」ってタイトル自体、一人(一匹?)生き残ることの孤独や、それと引き換えにして見られる光景という形で、「社会的な善悪の彼岸に身を置いた者が見る光景」という主題を示しているわけで、景色が哀切なほどに美しく撮られていなければ完成しない映画だったのに、これでは及第点にさえ達していない。また、そうした主題性などをいちいち台詞でご丁寧に語ってくれるのが却って嫌な映画ではある。

エンジェルホームの女たちも、素麺屋の従業員も、白衣(のような服装)をして、いわば均一化されている。その中に逃亡者・永作博美が溶け込むということ。白衣=天使という連想を働かせてもいいのかもしれないが、劇中では何よりもそれは、ただ平穏に暮らしているということ以上でも以下でもないだろう。そうして「普通」であることの、かけがえのなさ。島で、人々と共に、伝統行事であろう、長い松明を手にしての行列に溶け込むこと。そこで立ち止まって、その光景の美しさに見惚れる永作と「薫」。

「薫」という名は、不倫相手に永作が語る言葉によれば、生まれるはずの子の男女の別にかかわりなく付けるつもりでいた名であり、エンジェルホームの支配者・エンゼルが言うところの、性別、貧富、等々の「俗世間」から離れた「魂」の世界に属しているのだろう。つまりは、「薫」の名で育て、育てられた「親子」の愛は、社会的な善悪の彼岸にある。実際、「エンゼルさん」が永作の事情を知っていたらしいことが示唆されてもいる。

井上真央は不倫相手に、自分はクリスマスだの何だのといったものは何もしない家で育ったから、それらを貴方と初めてしたのだと告げるが、彼女の意識から遠ざけられていた永作との「親子」時代に、例えば松明の行列のような「行事」に参加した、美しい記憶が眠っていたのだ。

永作がエンジェルホームから逃亡したのは、「見学者」が来るとエンゼルが告げたからだった。「何も悪いことなんかしてないんだから、見てもらえばいい」というメンバーたちの言葉は、「悪いこと」をしている永作を、その場に居られなくしたはずだ。そうして、市川実和子の実家である素麺屋を訪ねた永作は、エンゼルが見学者ら「俗世間」の者とは口を利くなと厳命した言葉に逆らうかのように、「俗世間」で平穏に暮らしていくことになる。

素麺屋から再び永作が逃亡を試みることになるのは、その島での「普通」の生活が写真に捉えられ、全国紙に載ってしまったからだ。「娘」に、世界の美しいものを全て見せてあげたいと願う彼女自身は、他人から見られてはいけない立場なのだ。そんな逃亡の果てに撮られた「家族写真」(涙を堪えきれない永作に、写真店主の田中泯がかける「顔を上げて」の多義性と深み・・・・・・)を、永作が、次いで井上が回収するということ。井上のパートが、かつての道行きを辿り直すことで記憶を甦らす形をとっていることに表われているのだが、何らかの光景を「見る」ということが、その人間そのものを形成することとして描かれている。

そして、ラストシーンで、どこか遠くを見つめながら、まだ会ってもいない胎児を好きだと感じている自分の気持ちを吐露する井上。彼女自身、自分の子にも、美しいものをたくさん見せてやりたいと、小池栄子に告げていた。その小池の男性恐怖症は、「風景」を遮断するエンジェルホームの塀の上から闖入者として男が落下してくるシーンにその根拠が見出せる。男は、普通の家庭に自分の妻だか誰かを取り戻そうとして侵入してきたのだった。一方、井上の不倫相手は、初めて触れるものとしての「普通」の世界そのものだった。

見た光景そのものが重要だというよりは、一緒に誰かと見るという行為、その光景を見せてくれた人の気持ちの方こそが重要なのだ。船に一緒に乗っていたとき、幼い「薫」が海を怖がるのを、永作は抱きしめ、大丈夫だよ、キラキラして綺麗だよ、と優しく声をかける。それに先立つ、エンジェルホームで絵本を読んでやるシーンで、「薫」が「海って何?」と訊ねる台詞が予告していたように、「薫」にとっては初めての海だったのだ。初めての世界に、安心して触れさせるということ。このことにこそ、かつては、いくら「薫」が泣き叫んでも乳の出なかった永作の、失格していたはずの「母性」が集約されている。

片や、男たちは、井上の不倫相手・劇団ひとりの存在の軽さ(ひとり自身の耐えられない軽さ、というよりは、元々そういう人物設定のようだ)や、永作の不倫相手かつ井上の実父・田中哲司の、顔が見切れていたり、影がかかっていたり、画面奥に顔を向けて話していたり、俯いていたりといった形でしか画面に映らないという、顔の無さ、存在感の薄さ。女たちに対する男の責任を問うことにさえ大して興味が無さそうな、殆ど単性生殖的な世界観。これならばなおさら、森口瑤子の人生をもう少し拾い上げてやるべきだったはずでは。彼女が母として示そうとする愛情は、何か強迫観念に駆られた必死さ、娘に対する暴力性を潜ませて見えるのだが、それ故に、彼女の母性は「発揮する機会を奪われた」というより、元より乏しかったもののように映じてしまう。永作との関係性が、あまりに非対称的。

舞台のような所にいるエンゼルさんの隣で、「天使のような」と形容してもいい歌声を響かせる女性の、「ここだけデヴィッド・リンチかよ!」と突っ込みたくなる不条理性には、笑いつつも、ちょっと嬉しいサプライズ感。

逃亡母娘が、道行きの中で馴染んだ関西弁に染まるところは、エンジェルホームで、俗世の名と誕生日を捨てて新生の儀式を経た永作が、新しい自分に変わったことの証しだろう。関西弁がそうした美しい意味合いを与えられるのも珍しいが、そもそも既存の映画やドラマは、関西弁に変な役割を与えすぎなわけで。

(評価:★3)

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