[コメント] マディソン郡の橋(1995/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
この情景に惹きつけられる自分が主人公らと同じ境遇同じ環境に陥っていることと、”最後の愛”というキザなセリフをここまで自然に持ち上げることのできる演出に見とれてしまう。
映画とは常に自分というものの相反する情景であったり、自分を投影したり、自分と全く相反する環境に身を委ねたりするものだが、私の場合はこの映画に感情移入するパターンである。この枯れた日常。ありふれた日常。そしてそこに現れる日常とはかけ離れた写真家。これらが折り重なり、映画は日常から究極の愛を表現しようと昇華してゆく。
原作が素晴らしい。この原作を映画化することなど不可能なことだ。しかしここには原作を忠実に映画化した愛があった。それはこの二人の大スターでなければなし得ない力がある。メリル・ストリープのこの自然な演技は何なのだ。この人の目の下に存在する隈と申し訳なさそうなドレス姿。それが精一杯の着飾ったドレス姿。スクリーンには全くみすぼらしい彼女のドレス姿が大写しになる。誰もこれを”キレイ”とは思うまい。しかしクリント・イーストウッドは「言葉を失う」という表現で彼女を賛美する。この表現こそがこの映画の表現なのだ。
雨の別れ。夫と買い物に来て帰る車の向こうに彼がずぶ濡れになって立っている。そのみじめな姿。髪の毛が雨でよれよれになっている。このみすぼらしさ。しかし彼女は彼を求める。夫が車に戻る。雨の中車がUターンすると、その前を彼の車が遮る。交差点の信号。前にある彼の車のルームミラーに彼がネックレスをかける。彼女は今にも車を降りようとする。降り注ぐ雨。前の車、降りようとする彼女の手。そして信号が変わり、二台の車は別々の方向へと向かう。
夫も素晴らしい。長年連れ添う者の勘である。妻が他の男に惚れたことを一瞬にして見透かしている。老いてから夫は妻にそのことを告げる。これが愛なのか。愛なのである。この夫の晩年のつつましさと、彼女が平凡に過ごした気の遠くなるような永遠の日々とがお互いの死期に重なり合うのである。
母親の不倫を残された子供達が知って、そしてそれぞれがそのことを悲観し、そして真実の愛に目覚めた頃、お互いの家庭を思いやる気持ちが再び芽生えることとなるのだ。親の残した大きな財産となって残るのだ。
「確かな愛」という言葉に放浪の写真家は街から離れるが、死後残された記録が彼女のもとへ届く。これらの平凡なエピソードが重なり押し寄せる愛情を受け止めることなど、平凡な我々にできることなどない。
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