[コメント] サーカス(1928/米)
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“喜劇王”と言われ、未だに根強い人気を誇るチャップリンだが、意外にも賞、特にアカデミーとはなかなか縁がなかった人物としても有名である。理由は映画以外の所にあり、実はチャップリンはあまりにも素行が悪すぎた上に、政治的にも反抗的な発言を繰り返していた。
ただこの時点ではそれは表だったわけではなく、栄えある第1回目のアカデミー賞にはしっかり主演男優賞と喜劇監督賞でノミネートされている(本人は授賞式欠席)。数少ない批評家達に認められた作品だった。
本作の見所として、身体を張った綱渡りのシーンとか、ラストシーンとかがあるが、決してそれだけではない。
いくつかの変遷を経てきたチャップリンの作品だが、本作は丁度『チャップリンの黄金狂時代』(1925)と『街の灯』(1931)の間に入る作品となっていて、チャップリンの迷いがよく出ていた作品と見ることが出来る。それは実生活との演技者としてのギャップを考え始めた時だったと言う事もあると思われるが、同時にこれはチャップリンが演技上の深みを増すために必要な時間であったとも考えられる。演技者として、単に観ている人を笑わせるのではなくなりつつある、その過程だったのだろう。
実際ここでチャップリンが選んだのは、まるで自分自身のカリカルチュアの如きお笑い芸人だった。自分が知らぬ間に栄光を手に入れて、それを自覚したところで、落ち目になってしまう。独断と偏見で言わしてもらうならば、これこそチャップリンが自分自身として考えていた像だったのかもしれない。
彼のいつもの格好は、自分で考案したものだが、あくまでそれは虚像に過ぎない。しかし虚像の方が一人歩きしてしまい、自分を置いてけぼりにしはじめた。それを知っていたがための私生活での乱れだったのかもしれない。役柄に真摯に取り組めば取り組むほど、虚像ばかりがクローズアップされる。自分ではなくチャップリンという記号が一人歩きして大衆に認められてる。そんな恐怖を覚えていたのかも知れない。だから殊更彼は自分の名前を貶めるような真似を繰り返していたとも考えられる。
実際前作の『チャップリンの黄金狂時代』あたりから極端な寡作となったチャップリン(法廷での争いも多々あったし)は、その『チャップリンの黄金狂時代』では例の格好を捨てようとしているような節があった。しかし本作で敢えてその格好を選んだのは、同じ格好でも、違うものを作ってやろうというチャレンジ精神ではなかっただろうか?
元々チャップリンの作品には笑いの中にシニカルさや悲惨さ、権力に対する反抗心など色々なものが込められていたものだが、それまでの作品では笑いのスパイス的に用いられていたものを、今回は逆転させていた。むしろ笑いの方が副次的で、悲しみややるせない思いと言ったものの方が前面に出てきた作りに思える。
ここでの彼は、本人は大まじめなのに、何故か周りに笑われてしまうと言う、いつもの彼の姿が描かれるのだが、ここでのチャップリンの真面目さと融通のきかなさはいつもとは少々系統が系統が違っている。それまでの作品と違い、彼はこれまでになく人を気遣う心を強く持っている。
彼は言いたかったのだろう。僕こそが君を一番愛してる。僕が君を守ってあげると。 しかし、彼はその言葉を呑み込む。決して言葉を語ることがなく、彼女を見守るしかしない。彼女が他の男に夢中になって、彼女の愛が自分には注がれていなかったことを知った時も、むしろその橋渡しをするくらいに。勿論本人の中でも相当に葛藤があったことは示されるが、最後に彼の下した決断は、自分を押し殺すことだった。
チャップリンはこの時点で既に単純性を捨て去ろうとしていた。それを模索する形で『黄金狂時代』があって、本作へとつながった。そしてこの路線が傑作『街の灯』(1931)を産み出すこととなっていった。本作はその意味ではスタイルの模索中の作品であり、そしてそれがチャップリンという人物の深みへと転換していく過程だった。
ラストシーンの一抹の寂しさの演出とは、まさに新しく生まれ変わろうとしていたチャップリン自身の姿だったのかも知れない。
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