[コメント] CURE/キュア(1997/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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エンドロールの、街のノイズと、陽の落ちた街にぽつんと光る灯。その光景を引き裂くように流れていくクレジット。言ってみればこの映画は、このエンドロールが語ること以上でも以下でもない。ありふれた光と音が、雑然としたその中から一つの反復を浮き上がらせることで、唐突に、日常そのものを引き裂くこと。間宮(萩原聖人)は語る――「以前は俺の中にあったものが、今は全部外にある」。「中」にある憎悪と破壊の衝動が、日常の光と音として、「今は全部外にある」。
海岸で倒れた間宮を拾った花岡(戸田昌宏)が、自宅に連れ帰った間宮と会話するシーンでの、海の波音。大井田巡査(でんでん)が高部(役所広司)らによる取り調べを受けるシーンでは空調か何かの音が持続している。間宮が藤原本部長(大杉漣)を初めとした警察の偉いさんたちにお目見えするシーンでも、何か機械が作動する音が反復している。何より、高部の妻・文江(中川安奈)が何度も、洗濯物を入れないままに作動させる洗濯機。或いは、彼女は、その作動音を響かせること自体が目的なのかとさえも思える。高部が提案した旅行に備える彼女が思いを馳せるのも、沖縄の海。文江の首吊り自殺の幻覚を高部が見るシーンでは、跪いて嘆く高部に「どうしたの?」と声をかける文江が、ジューサーを作動させていて、やはり機械による単調なノイズが発せられている。こうした、観客側の日常で普通に、意識せずに耳にしている音が突如として凶器と化す可能性を孕み始めるというこの工夫が見事であり、この作品を観終えた後、周りの世界が確実に、その様相を異ならせて映じてくる。これは、優れた映画に備わる特徴だ。
文江がまともに洗濯を行なわないので高部はクリーニング店に通うことになるのだが、一度目のクリーニング店のシーンでは、傍らの、たまたま居合わせたらしい男がブツブツと、会社でのストレスと思しき怒りの言葉を独り言で呟いているのだが、店員が現れると途端に人畜無害な一市民の顔に戻る。こうした、一見すると平穏な日常を一皮剥けば憎悪の渦巻く世界が現出するという演出は、最終カットに至るまで一貫したものだ。そして、二度目に高部がクリーニング店を訪れるシーンでは、確かにこの店に預けたのだと言い張る高部と、それを否定する店員の遣り取りが展開する。ここでは、高部の心中に沸き起こっているであろうストレスと共に、高部にせよ店員にせよ、「記憶喪失」というテーマが顔を覗かせているのだ。また、文江の、家事を行なっているつもりらしいが却って高部を苛立たせる構図としては、帰宅した高部の夕食のテーブルに、焼かれも何もされていない生肉がそのまま皿にのせられているシーンも忘れるわけにはいかない。これは、ラストシーンで高部が、レストランでステーキを平らげる光景の伏線になっている。
そして、高部と間宮の対決は、廃墟と化した病院で高部が放つ銃火が画面を染める複数の瞬間、つまり光の点滅によって完結する。これは、間宮が用いていたライターや煙草の火に取って代わるものとも言える。その後、伯楽の声が吹き込まれた蓄音機の許へ高部が近づくカットでは、彼は床の水溜りを越えていく。言わばこれは三途の川だ。水は、女医の明子(洞口依子)が催眠にかかるシーンでのコップの水や、高部が病室で間宮と対峙したシーンでの雨漏り(高部の頭上で天上が黒々とした染みを広げる不穏。そこに水滴が光るさまは宇宙の開口部のようだ)として表われていたが、間宮が明子に語っていた台詞を思い起こすべきだろう。「以前は俺の中にあったものが、今は全部外にある。だから、先生の中にあるものが俺には見える。そのかわり、俺自身は空っぽになった」。精神の漏出と空無の表象としての水。間宮は、直前に高部が伯楽の写真と対面していた方から現れる。古い伯楽の写真は顔が殆ど真っ白であり、彼は匿名的存在である。「伯楽→間宮→高部」という継承の構図は明瞭だ。それにしても、高部が伯楽の写真を、半透明のカーテン越しに目にすることや、廃墟の病院に放置された浴槽は『サイコ』を連想させるし、高部と間宮が初対面する(というか、闇の中で間宮の声に惑わされるのだが)シーンでの、闇の中で煙草の火が点滅するカットは『裏窓』を思わせる。これも一つの「継承」の光景だろうか。
ナイフによる切り裂きというイメージも『サイコ』を思わせる。高部が文江を入院させる直前には、手が台所の包丁へと向かう短いカットが挿入されるが、高部は、自らの殺意から文江を逃れさせるために入院させたのだろうか。実際、文江を診ている医師からも、「貴方のほうが病気に見えます」と指摘されている。病院へ向かう際の、まるでバスが天上を浮遊しているかのような車内カットも凄い。
高部が間宮の病室を訪れるシーンでの、二人の会話に合わせてノイズが微妙に変化する演出の見事さ。見事すぎて作為を感じる面もあるのだが、思えば、このシーンで間宮にとって都合のいいタイミングで雨が降る展開なども、見事すぎてこの間宮が気象すらコントロールしているかに思える。間宮が病院から脱走する直前のシーンでは、間宮は椅子で空調機を叩き、金属音を反復させているのだが、このシーンでは地震も生じており、間宮は世界そのものを動揺させる存在であるかのようだ。この種の「映画的」(ノベライズでも雨の場面は描かれているので、この際「フィクション的」と呼ぶべきだろうか)な演出は、言わば、間宮が偶然を都合よく利用して催眠をかけるテクニックと同じ論理を用いているのだとも言えるだろう。つまり映画そのものが催眠暗示の一手法であると。佐久間(うじきつよし)や文江の殺害を事後的に描くシーンが唐突に挿入される終盤は、何やら編集がわざと省略されているような印象を受けるのだが、これこそ間宮の催眠が引き起こす記憶喪失と、映画的カッティングの類似性の表れだと言えないだろうか。
黒沢清自身によるノベライズ『CURE[キュア]』は、心理小説の一つの極致とも言える傑作であり、映画のほうに感心した方にも、逆に納得のいかなかった方にも、共に強くお勧めしたい。間宮が彼独自の思想を得た理由でもある生い立ちや、あのX印の催眠を行なった人物・伯楽陶二郎の主催していた団体についてなど、映画で描かれなかった細部についても書かれている。面白いのは、佐久間が映画とはかなり印象の異なる人物造形を為されていること。彼の容姿を喩えるのにエイゼンシュテインが引き合いに出されているのが黒沢らしい。そして何より、間宮の催眠を描くシーンでの、緻密な心理描写は、これはさすがに小説でしか為しえないのではないかと思える見事な筆致。
小説版『CURE[キュア]』は、同じ黒沢の手によるものでありながら、『回路』のノベライズとは比べものにならないほどの完璧な小説だ。それだけに、小説版を読んだ後に再鑑賞したときには、最初の鑑賞時のインパクトは嘘だったのかと思えるほどに、映画のほうは物足りなく感じたものだ。だが、このたび久方ぶりに映画のほうを観てみて、むしろ映画のその表層性こそが、小説には無い独自の世界観を示しているようにも思えた。それについては上述した通り。それと、高部と文江の関係性は、小説版を読むとかなり印象が変わる。それに伴って、「cure(癒し)」の意味もまた違う形で示されることになる。文江の心理だけが一人称で書かれているのが、うまく効果を上げている。おそらく、彼女は「憎悪」の顕在化という事態を待つまでもなく反世界的な精神であるが故に一人称を与えられたのだろう。
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