[コメント] 愛のコリーダ(1976/日=仏)
性愛よりも凶暴な癒し、阿部定の包丁が凶器なのではない、そもそも男のペニスが凶器なのだ・・・ああ、ああ、『アイズ・ワイド・シャット』の、その先へ
セックスはわかりやすい。いちいちつながらない言葉を重ねていくよりも、性器を重ねた方が、自分が必要とされていると感じれる。一瞬でも。もちろんそれは、フェイクなのだけど、フェイクに身を委ねることでしか感じることができないモノがある。思春期の頃のように、イノセンスとロマンティックなイメージを膨らませていくことには、もう飽きた。もう若くない?そうかもしれない・・・fuck!
しかし、当然『愛のコリーダ』は、ベルナルド・ベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のように、エロスだけの映画じゃない。むしろ、アメリカン・ニューシネマのようなタナトスと共鳴するかのごとく、そのエロスとタナトスの交わりの接点において、当時のヤワな日本映画に冷や水を浴びせかけた(構造改革?!)。こういう、ある意味でジャーナリスティックな「行動」が映画を更新させてきたのも、また事実で。肉体に穴を穿(うが)つように、映画に穴を穿つこと。この時まで、大島渚はキレていた。そう、‘fuck’とは「セックス」であると同時に、「クソ!」と天に唾することなのだから。
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