[コメント] イニシェリン島の精霊(2022/英)
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監督のマーティン・マクドナー。前作の『スリー・ビルボード』のときから、変わった話を撮るひとだと思っていた。いったいどういう素性の人なのだろう、と思っていたが、アイルランド系のひとだったのだ。そして、前作も今作もある種の故郷喪失の話である。アメリカの田舎町とアイルランドの孤島。どちらも、ちいさな古い共同体が崩壊する話なのである。そして、どちらにも、カトリック教会の神父がでてきて無力をさらけ出す。だからこれは魂の問題をめぐる話である。
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海の向こうで砲声が轟く。つまり「黒船」ということだろう。アイルランドの孤島にも、1920年代になってようやくグローバリズムがやってくる。その重低音を聴くともなしに聴いているうちに、島のひとびとの心はいつしか根底から揺らいでくる。ひとりのおじさんが、たまたま、楽器という自分の心の裡を探ることのできる装置をもっていたことから、自分自身のなかに「内面」というものを発見してしまう。宗教と迷信とムダ話が埋めていた場所に、それは暗い口をぽっかりと開けていた。
かれはその新たに発見した新大陸を探求しはじめる。楽器はかれの心の位相を精確に描き出してくれる。しかしその一方で、その行為が自分をどこかコワいところにつれていくかもしれない、とかれは予感している。自分にその探検を強制的にやめさせるために、自傷行為に走りさえする。そして、のほほんと共同体に埋没して「いい奴」をやっている相棒に苛立ちをつのらせる。
相棒は悲惨なことになる。かれは、本や楽器のような、世界を解釈し、世界と自分との位置を測る道具をもっていなかった。友人を失い、世界と自分との距離を見失い、世界も自分も見失う。あげくにあっさりと「悪」に屈服する。そして、その「悪」は島の軽はずみな男たちに伝染して増幅していきそうな気配だ・・・。
砲声は孤島のひとびとを自由にした。「内面」を発見する、とはつまりそういうことだ。しかし、自由な世界と「いい奴」であることとは相性が悪い。(近代以降の日本の歩んだ道が「いい奴」のそれだったかどうか、自問してみればわかる話だ)といって、いまさら教会が支配/保護する古い世界にもどることもできない。
はたして、自由な世界において「いい奴」は滅びるしかないのか? 「いい奴」であることに意味はないのか? アイルランドは内戦やら飢饉やらで人口の半分が国外へ流出した土地だから、マクドナー監督にとってこれは切実な問いであるにちがいない。『スリー・ビルボード』も、悪のはびこる世界においてよい人間であることを希求する映画だった。あの映画の結末を、わたしは「出家」だと考える。
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そしていま、ウクライナの砲声を海の向こうに聴いているわたしたちにとっても、これはなかなか切実な問いかもしれない。わたしたちははたして「いい奴」? それとも・・・
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