[コメント] 君たちはどう生きるか(2023/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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美しい地獄が、現実と融和する。異界はすでに異界ではない。穢れを所与のものとして生きる。「勘違いしてるかもしれませんが、俺はもともとこういう人間ですから。少なくとも俺には世界がこのように見えている。むしろ、君たちはこの世界がどう見えてるの?そもそも見ようとしてるの?」。前作を凌ぐ圧巻の開き直り。狂気じみた、しかし明晰に制御された、忖度一切なしの憎悪の悪夢に呑まれる喜び。困惑気味の周囲を尻目に、終始鳥肌。
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まずシンプルに、物凄い画です。次のシーンで何が起こるか予測がつきません。矛盾が矛盾のまま並置されますが、それも、未整理というわけではないのです。見慣れた重要なモチーフはありますが、虚しい既視感はなく、ここにきて不穏や緊張感の捌きは新境地であるとすら感じました(キャッチーでこそないものの、久石譲も円熟の域)。とても2時間程度の映画だったとは思えません。イメージの狂い咲きに身を任せるだけでも価値があるでしょう。
単純な話、心の闇の話です。『千と千尋』系列なんですが、心の闇の源流の描き方が最大公約数的にぼかされているのと対照的に、前作に引き続き、宮崎駿御大は原作を私小説化しています。父は工場で戦闘機を作っているのでしょう。これは俺の話だと言っています。心の闇を主テーマにしていると言う点では『ゲド戦記』の失敗に対しての復讐でもあるのかもしれません。息子が語れなかったので、やはり俺が語る、と。その分明快で、異界のトンネルをくぐるまでの「闇」の仕込みが非常に丹念です。眞人は目の前に展開される異様な光景に、さしたる驚きを見せません。驚きを見せたとしても当然のように納得して行動します。これは、この異界が彼の心象風景を映す鏡であることをわかっているからでしょう。全ての事象に、何らかの心当たりがあるのです。あるいは、後述するように、現実が異界並みにグロテスクであり、驚く必要もないからです。これは観客の感情移入を阻害する反応ですが、御大は既にそれを当てにしていません。
原作は同名の何某かとされていますが、より強くインスピレーションを受けたのは、公式の展覧会での情報によれば、ジョン・コナリー『失われたものたちの本』であるようです。私が鑑賞中に連想したのは『果てしない物語』と『パンズラビリンス』でしたが、後者の感想で、私は『トトロ』のようだと書きました。ともかく、異界と現実の融和した先の世界に「還る(=生きる)」というのは、御大の重要なテーマなのでしょう。
どう見ても、世界が好きな人が作る映画ではありません。御大の異界は、世界への憎悪で出来ています。御大はそれを穢れと承知していますが、穢れと知りつつ、それは同時に狂おしいほど甘やかなものであると、真顔で告白しています。いくら告白しても足りないようです。むしろ、その穢れを抱えずに生きている生を信じられないとすら思っているように感じます。『風立ちぬ』での浄化が足りなかったのか、今回は歴代の作品の中でも上位に入るレベルでキレている(怒っている)ように感じました。
現実も異界のようにグロテスクです。既に異界は異界ではなく、ここが異界なのです。「今日一日保(も)った」のが奇跡のような、一瞬で壊れて燃え尽きる、人間の穢れに塗れた世界です。本作で、何と御大は、現実はクソまみれだとはっきり直喩(鳥のフン)で明け透けに宣っています。御大の最重要テーマである「風」を受けて飛翔する「鳥」に仮託してそれを語るのです。そのことに気づかない人間を、御大は心底憎んでいるでしょう。穢れを捨てて世界を愛せよ、なんて、御大は絶対言わないのです。絶対無理なのです。本気の憎悪があるからです。何しろ戦闘機のコクピットを見て「美しい」と言うんですから。父にも夏子にも、殺し合い、ただひたすら貪食する人間の世界にも、憎しみを抱いています。愛そうとすればするほど憎しみが深くなる、矛盾のようでまったく自然な業(ごう)です。本当は愛したいから憎むのです。
なぜ夏子をなぜ取り戻し、クソまみれの現世に還らなければならないのか。母の幻影を求めたのではなく(=青鷺の誘いに乗って命を断つのではなく)、夏子が業を業のままに生きることを共に理解できる相手だからです(夏子は眞人の憎しみに気付き、寄り添おうとしているが、憎しみに呑まれる寸前の場所にいる。)これまでにもあった業の浄化の試みなのですが、『もののけ姫』でアシタカの腕から業の痣が全て消えなかった(「それでも生きろと言ってくれた」)ように、また、ナウシカの「蒼き衣」の紋章の中心部だけが赤く染まったままであるように、眞人は怒りと憎しみを飲み込んだまま、現世に帰ってきます。積み木の王が求める理想の世界は、為し得ない世界であり、欺瞞であると彼は理解しており、枯れた積み木の王自身がもっともよくこのことを承知しています。穢れのない世界など作り得ない。だから眞人は積み木の王を否定します(これはナウシカ原作のナウシカと墓所の主の対峙に相似します)。穢れを所与のものとして生きる。世界は滅ぶべくして滅ぶだろう。ただ、一片のピースを人は持っている。どう使うか。これが御大が考える「世界のバランス」に関する真摯なあり方であり、自己正当化です。俺はこう考えて、生きた。君たちはどう生きるか。
私は、『風立ちぬ』の感想に、監督の最後の作品として、世界を滅ぼす映画が観たいと思っていた旨を書きました。実際に『風立ちぬ』を観て、しかし、その思いの多くは改められたのですが、新作を撮っているという報道があって以降、やはり監督の本気の憎悪が観たいという思いが、拭いきれませんでした。それは具体的には『シン・ナウシカ』であって欲しかったのですが、私の身勝手な誰知らぬ欲望に本作は別アプローチから見事に応えてくれました。私は、ビジネスを度外視した、御大の本気を見たかったのです。誰もが眉を顰め、困惑するような本気を。私はそれが真摯だと信じています。憎悪の向こう側に光を見出すことを。とんでもない画でした。ありがとうございました。
米津玄師は、正味どうでもよかったです。
ところで、「ジブリらしい」って、一体何なんでしょう。本質としてタタリ神を抱え込む御大にとって、この言葉は呪符でありくびきだったのではないかと思います。しかし、彼が本当にタタリ神になってしまわないために、現世と折り合いをつけて生きるために鈴木敏夫がいてくれたのではないかと今では思うのです。そして「ポストジブリ」って、人は何を求めてるんでしょう。私には強い違和感があるのです。そんなもの、必要なのでしょうか。
(備忘録・重要と思われる台詞、モチーフ)
・「火は好きよ」→火は否定してきたのではなかったか?あ、でもナウシカは火と風の人なんだよなあ、、、
・「時間がない」
・「この石はいろんな世界に跨ってる」→あの迷宮は、人の数だけ存在して、人ごとにその姿を変える。
・流星群
・喰われた(?)「鍛冶屋」とは何だったのか。
・はらわた
・血のようなジャム→史上最もグロテスクな「ジブリ飯」。これを商品化するなら、関係者は正真正銘のバカである。しかし、母が亡くなる前には、その時は思いもしなかった「母による最後の食事」を反復するという点では、グッとくるものがある。
・「血を引く者でなければ大叔父の声を聴くことはできない」
・天国のような地獄。その門は、現世の、空から落ちて来る。
・「我を学ぶ者は死す」
・インコ→思考停止の貪食者。堕ちた鳥。千と千尋の、名前をなくした豚たち?
・インコの王と青鷺はナウシカ原作「ヴ王」と『もののけ姫』の「ジコ坊」のキャラクターに相似。
・青鷺はナウシカ原作「王の道化」の側面も。真実を語る嘘つき。
・鷺の象徴→ weblioより「エジプトでは日の出を最初に迎える鳥と考え、また冥界の支配神オシリスの心臓から飛び出た鳥ともされて、再生の象徴とされる。」・・・意味があるのかないのか。
・「ワラワラ」は地獄から天に昇って現世に生まれる。螺旋のイメージ。
・「この辺りは死んだ奴らの方が多い」
・楽園的地獄のイメージは、ナウシカ原作のヒドラ農園のよう。「墓所」の咀嚼も必要。
・「マコトの人か。道理で、お前からは死の臭いがプンプンする。」「あなたはいい子ね」→明け透けな自己正当化。
・「お前、あっちのこと覚えてんのか?」「まあ、すぐ忘れっちまうだろうけどな」
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