[コメント] あんのこと(2023/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
SNSなどで「貧困=努力が足りないから」みたいなコメントを見かけるといつも思うのが、そういう人は自分が片親だとかネグレクトだとかケアラーとかの家庭に生まれたとしても同じことが言えるのか?と腹立たしく思う。練習もしないのにマラソンで勝てないことに不満たらたら言っているやつがいたら、それはその人の自己責任といってもいいだろうが、その人が骨折してたら、骨がちゃんとくっつくまでは練習できないわけだから、本人の努力以外のケアも必要になってくる。
この作品は主人公が治療の最中に、未曾有の出来事で社会が機能不全に陥ってしまった最中に、信頼していた人物からの裏切りに合い、同じようなハンデを背負っている人から抱えきれないような難題を押し付けられるという不運がタイミング悪く重なり、まだ骨がくっついていないうちに無理やり走ることになってしまう。そしてマラソンを完走した人たち同士は「努力は報われるよね」「練習もしないやつがご褒美にありつこうなんて厚かましいよね」と、とうとうくっつきかけた骨が折れてしまい道で倒れて起き上がれなくなった主人公のことなど視界に入らないで、お互いに自分たちのゴールを喜びあうという、この国で最近起こった一連の流れを振り返って見て、果たしてこれで良かったのか、ということを考えさせる作品である。
貧困は一度陥るとなかなかそこから抜け出すのが困難だ。それを貧困の中にいない人はなかなか想像することが難しい。だからそれについてはさまざまな研究や調査などを通して理屈を理解することはできるのだが、不運という「点」がいくつか最悪のタイミングで結びついて「線」になってしまうというような、実際の生活というライブ感の中で生じる問題のようなものを知るのは、やはり物語というものでしか理解できない、そういう物語の効能ということを改めて本作で再認識した。その物語(ストーリー)に血肉をほどこす演出と俳優の演技の確かさ。河合優実のあんとしての話し方、目の動き、メモ帳に文字を書く時の仕草、母親に騙され赤ん坊を取り上げられ、ベッドに放りだされた赤ん坊に立ちふさがる母親の立ち位置と足元のゴミの山で赤ん坊に近づけないあんの立っている位置、側に座っている祖母がいて暴れられないなどのあの部屋の空間・配置の造形の巧さに唸る。こういうほんのちょっとしたことが、理屈では説明の難しい偶然が生んだ困難さがもう一度売春に向かわざるを得ないという状況に結びついてしまう、救いの機会を断ち切ってしまうのだという実例。そういうこともあるのが現実というものなのだ。「母親から赤ん坊を力づくにでも取りかえせばいいではないか」という意見と、「それがどうしてもできなかった」というような、噛み合わない議論は、こういう偶然の所産というものの想像の難しさ、実際の生活体験に対するマネジメント能力の低さにあるんだなと思った。映画を初めとする物語が作られる意義は大きい。
あんがいよいよ最後の選択をする時に頭上でブルーインパルスが飛行していく画には「それが救済を待っている人に何ももたらしていない」という、監督のメッセージがはっきり描かれている。ブルーインパルス支持派は、そういう見せ方は作為的で悪意を感じるというかも知れないが、これは多くの人の共通体験だったはずであり作為というほどの誇張ではない、なんならブルーインパルスでなく「自助共助公助」と公助を一番最後に掲げた紙を披露した総理大臣のテレビ映像だったとしてもなんらの誇張でもなかったと思う。あれを見て最後の救済にすがる思いだった人の多くの心が折れたのではなかったのか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (4 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。