[コメント] 機動警察パトレイバー2 the Movie(1993/日)
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クラウゼヴィッツがどうとかホッブズがどうとか語る力は私にはないのだが、押井が問題にしているのは「戦争が隠されている」ことであって、「あるものをないものにする」という戦後の「神のまどろみ」である。思えば『ビューティフルドリーマー』から『スカイ・クロラ』に至るまで、「まどろみ」と「めざめ」がテーマだった。「戦場」に赴く特車二課の面々のオリジナル作画尊重のキャラクタ達の輪郭の強さ(集結→整列時の目の輝き)と、「まどろむ」都市の「まどろむ」人々の生気のない作画(沖浦さん良い仕事!)のコントラストに注目。
「取り繕われる平和=戦後=自己防衛としての仮想への逃避」への猜疑心が押井の原点であって、執拗に「埋立地」「ビル群」「廃屋」での幻想的な彷徨を描くとき、それがいやでも滲んでくる。阪本順治の『トカレフ』や、「代用品」という象徴的な言葉を執拗にリフレインしていた是枝の『空気人形』でも、共通項を持つテーマである。ある種の真摯な作り手が共有する、のっぴきならないテーマなのかもしれない。
眼前の現実を現実として認識できない「まどろみの自家中毒」とも言うべきパニック描写(ベイブリッジ破壊、偽りの空中戦、飛行船)の恐ろしさは言うまでもない。多くの方が指摘されているように、9.11を「ブラウン管」を通して目の前にした私たちの多くが抱いたであろう第一印象。「これは映画ではないのか」「嘘ではないのか」
「居ながらにして知り、居ながらにして裁く」。戦後、メディアの発達により、私たちは「怠慢な眠れる神」になった。
「めざめた者」柘植の「めざめのテスト」に合格した二課の面々。逮捕された柘植の表情がどこか充実しているのは、彼が仕組んだ「虚」というトラップは、告発者としての彼を理解しなければ超えることができなかったものであり、彼を理解しつつトラップを突破した二課の面々への頼もしさを覚えたからだろう。下水道の戦闘シークエンス。打って変わって血の通った躍動と、南雲の「どけええぇっ!」という渾身の咆哮。逮捕されたからこそ、柘植の目的は果たされたともいえる。柘植の「真摯過ぎる狂気」のキャラクタが素晴らしい。
彼が乗り越えるべきと説いたのは、単純に「平和ボケ」と卑小化した言葉とは違う。この言葉には注意しなければならない。脅威に取り巻かれているから自衛しろという右翼的言説ではなく、要は身を守るための嘘、その嘘すら嘘と認識しない「罪深い無自覚」である。「この無自覚の克服なしに、憎しみと血を乗り越えて世界は救えない」とまで豪語するのである。そのストレートで素朴なメッセージは「恥知らず」なのか、「真摯」なのか。奇しくもこの物語は「知られざる第三世界」の内戦への武力介入の挫折=現実との直面から始まる。この失敗を見つめる崩れかけた仏像と柘植の表情に、私たちは何を読み取るべきなのか。ひた隠しに隠してきた「不正義の平和」の欺瞞が暴かれるとき、それは暴力によってしかなされない。後藤の言葉を借りて柘植が叫ぶように、それでは「遅すぎる」のである。アヴァンタイトルの光景は対岸の火事ではない。それは「わたしたちの問題」なのだ。
この物語を「思想のために意図的に作られすぎている」という評価もあるだろう。ただ、私は「意図的に作らないでどうして物語が有り得るのか」と考えてしまう。だから、一貫して自らのテーマに忠実で、愚直に過ぎるほど「能書き」をさらす押井のある種の「素朴さ」を愛さずにいられない。それが計算された確かな演出に基づいていればなおさらである。ぶつぶつ飄々としているようで意外と真剣に「めざめよ!」と怒っている押井さんは頼もしい。この人はまじめな人なのだ。
ところで、理解者であり、同じく「めざめた者」である後藤と南雲、柘植が遭遇する埋立地のクライマックス。「理解」を共有しているにも関わらず南雲に近づくことのできない後藤。ヘリから南雲と柘植を見下ろす後藤。この距離感。切なく届かない片想い。そして、捕らえられることを望む柘植に対し、捕らえることによって愛の証明に代える南雲。押井さんってば、ウエット!隠しても無駄!そういう天の邪鬼さんが私は大好きです。
※ 蛇足ですが、アクションシーンを無闇に垂れ流さず、「ここぞ!」というところで鮮やかにキメてくる押井さんが、繰り返しますが私は大好きです。
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