コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 復讐するは我にあり(1979/日)

罪も無い筈の人々を次々と殺しまくる無軌道な男の物語なのに、全編から漂うニヒルなバイタリティ(ちょっと矛盾したような言い方だが)には妙に元気すら湧きたたせられてしまうことに、やや困惑させられる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「留置場は、よう冷えとるじゃろうねえ。どかぁんと、冷えとるじゃろうねぇ留置場は」とか「んにゃんにゃ(いや、いや)」といった方言の音が孕んだ情緒が、台詞の魅力を倍増しており、所々意味が分かり難い個所があることにも目をつむる気にさせる。また、僕が生まれる前年の作品だが、当時は根岸季衣(この時は根岸とし江)が可愛かったのだというのが意外かつ新鮮。方言、女の肉体、三國の、奥深い情念に震える台詞、何げない光景すら湿度と温度の滲む濃い画面、常に映像の内側から殺意とエロスが突き上げる感覚、と、長尺にも関らず、目が離せない。

最初の殺人が行われた後に入るショットでの、樹に生った柿の鮮やかな橙色。露天風呂で加津子が義父・鎮雄の眼前にさらす裸体を、毒々しい健康さとでもいった艶めかしさで浮き立たせる、橙色の光。旅館の老婆・ひさ乃と巌が殺人という行為について語り合うシーンでの、画面全体を覆う夕陽の橙色と、ウナギのぬらぬらとした長い体(巌が水を顔に浴びるホースのヒョロヒョロとした長さとのアナロジー?)。旅館の女・ハルを殺害した後、巌が旅館の窓の外を見ると射しこむ強烈な白い光、そして光の中から立ち現れる墓場。橙色は鮮血の色のように、禍々しくもまた生命の色でもあり、白い光は、浄化の色のようでもあり、最後に巌が遺す骨の空虚な白みのような死の匂いも漂う。人間も、色彩も、濃い映画。

父は、軍国主義の暴力に無抵抗、それを見て反撥した息子は戦後、米軍のジープを盗んで女を誘う。その行動は、米国という新たな社会的権威に容易く一掃された日本のかつての権威への嘲弄のようでもあり、また、無力な道徳に縛られた父に反逆し、社会の権力を自らの身に纏ってみせる、力の信奉者になったようでもある。

聖書の言葉である「復讐するは我にあり」の「我」とは神エホヴァのことだが、巌にとっては父がその代理人のようなポジションに立っていたのかもしれない。悪に悪をもって報いるな、罪に対しては、超越者たる我が裁きを下すのだ、という神の言葉への忠実さともとれる、父・鎮雄の無抵抗。横柄な軍人に、漁船を徴発され、しかも天皇への忠誠を表明しろと強制される父と、軍人に対して暴力で立ち向かう幼い巌。巌の暴力性を発動させたのは、この父の無力なのだ。その優しさが、巌の妻・加津子の心を奪う。鎮雄は、何もしないことによって(加津子の言う「狡い」とはこのことか?)、巌から全てを奪う存在なのだ。

鎮雄の無抵抗はただ人間に対してのものであり、加津子を噛んだ犬を彼が地面に埋め、加津子自身も煮え湯をかけて殺すシーンは、犬という最底辺の生き物に、彼らの奥底に眠る暴力性の捌け口を見出したように見える。そして、言わば巌はこの、人に噛みつく、躾けのなっていない犬であり、だからこそ、出所して、父と妻が屈折した形で精神的にデキてしまっていることを知った後、生垣の外から犬のように吠えて去っていくのだ。その、生垣の向こうからひょっこり顔を出す緒形の顔は、恐ろしいと同時にユーモラス。この、恐ろしさとユーモアの同居は、この作品全篇を貫く要素でもある。キタノ映画などを観ても分かるように、日常に介入してくる、クールかつ唐突な暴力は、ユーモアをも呼び込むものなのだ。

各地を転々として身の置き所の無い巌。ラストはそんな彼にふさわしく、自身の肉体にすら安住できぬ様を顕わにする。彼に最後の審判、復活の時はやって来ないのだろう。家の宗派はカトリックであるにも関らず、父の手で父自身もろとも破門された巌は、仏式に火葬にされ、遺骨は虚空にばら撒かれる。ここに、「日本のキリスト教」でしか為し得ない一つの表現がある。欧米ではキリスト教的な罪や罰、赦しといった観念が、歴史的に生活の中に馴染んでいるせいで、却ってその絶対性や隔絶性がぼやけてしまう面があるように思う。その点、日本の土着的な習俗の中では、キリスト教的観念は違和感があるがゆえにその本質が際立つ。欧米では、キリスト教式の葬式でなければ、何か故人の遺志による別の葬り方が行われるのだろうが、日本では、慣習に従って火葬にされるので、その死の個人的な意味性を出さずに、ただ空虚な後始末という感のあるあのラストが可能なわけだ。

巌には入るべき墓も無く、「その辺にばら撒いてくれ」と吐き捨てた通りの形で、超越的な神からも、俗世間からも追放された最期を迎える。この二重の追放は、だが、巌がこのどちらの囲い込みからも逃げおおせたということでもあるのではないか。

巌の身の置き所の無さは、場所に関してのみならず、人の心に関してもそうなのかもしれない。だからこそ、自分に心を許す者を騙し、殺さざるを得ないのではないか。旅館の老婆・ひさ乃は、かつて彼女自身、人を殺め、娘に罪人の親族としての十字架を背負わせ続けてきたのだが、その彼女が言う「自分が本当に殺したい相手を殺せばスッキリする筈」だという断言、「お前はスッキリしたのか」という問いかけ。巌は、その問いを封じる為にこの老婆を殺害したのかとも思える。そして、本当に殺したい筈の父を殺すことは遂にできずに死んでいくのだ。

ひさ乃の娘・ハルの殺害は、横たわる彼女の遺体の腹部が膨らんで見えることにも表れている、殺人と反対の、生命、新たな家族の誕生という事態は、この世に安住の地を持たぬ巌にとって今や禁忌であり、それ故に彼女を殺さざるを得なかったのではないか。この殺害に関して言えば、ハル本人にとってはむしろ開放であり、巌にとっては自らへの罰であるかのようだ。

遺体の扱いも他とは違う。巌はハルを絞殺した後、その股間を拭いてやり(絞殺された人間は失禁する)、「ありがたか…」と呟いていた。それは、死ぬ直前に彼女が見せた表情と、「遠くへ…」という言葉、生前の、巌になら殺されても構わないという言葉や、推測される、母の犯した殺人によって人生を狂わされたことによる、殺人犯・巌への感情移入、といったことから、あの最後の表情と言葉は、巌と心中する意思の表れだと言っていい。また実際、その意思を、巌に首を絞められて死の際にある中で見せたということ。これが巌にとって、死という彼岸、この世のアウトサイドへの道行きに同行してくれる女への「ありがたか」という思いに結実したのだろう。自らが手にかけた女の遺体の股間を拭いてやるという、グロテスクでありながらも親密かつエロティックな行為。

更には、この辺のタイミングで、鎮雄と加津子が子供たちと食卓を囲んでいる所を、鎮雄の妻・かよが部屋の外から覗き、自分も女だから夫を渡したくない、と呟く台詞は、旅館で若い者たちのセックスを覗いていたひさ乃の、老いてなおしぶとい欲望と重なって見える。また、鎮雄が亭主の位置を占める食卓の、何も欠けたものがなさそうに見える光景は、巌が完全に排除され、却ってそれ故に家庭が成立している様が印象的だ。そこに老いた体を横たえて邪魔するかよは、不在の息子の執着心の残滓のように思えなくもない。

ラストの骨投げシーンはついつい『2001年宇宙の旅』なぞを連想してしまうのだが、ストップモーションの厭らしいまでの繰り返しは、この作品の持つ「しぶとさ」というテイストがバカ正直なまでに表れたのかな、と思う。エンドロールに流れる曲も、サスペンス調のテンポの良い曲調なので、ラストシーンの、人の世の不条理さにはもうワケ分からん、といった感じで文字通り全てを放り投げてフリーズしてしまったような雰囲気を破る、慎みを欠いた曲調ではある。が、普通なら余韻を感じさせるような曲調にするのがベターとも思える所に、オープニング曲と間違えて選曲したかのようなああした曲を敢えて(だろう、たぶん)挿入するセンスは割と好きだ。「ヘンに難しそうなしかめっつらをしてみせて文芸作品ぶったりしねぇぞ俺はッ」という気概というか、俗っ気というか。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (6 人)Orpheus[*] ハム[*] ペペロンチーノ[*] 死ぬまでシネマ[*] ぽんしゅう[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。