[コメント] バートン・フィンク(1991/米)
耳汁がタレる。壁汁がタレる。コーエン汁がタレる。
必要以上に不必要なものが詰め込まれた世界。
たとえば、耳汁が垂れるのも、壁紙を貼り付ける弼が垂れるのも、その不必要なものが、肉体とホテルから溢れ出しているからだ。ラストに映し出された「美しい女」も「落ちる鳥」も、全く必然性を欠いた不必要なものとして突如、画面上に投げ出されてしまっている。そして、「果てある無限」とでもいうかのように、その女と鳥の前にある海は、のっぺりと延びるホテルの廊下そのものだった。
結局、この映画には広がりが全くないのだ。海の向こうに未踏の大地がある気配がまるでない、デッドエンドとしての海。そして、全体に漂うのもそんな「終わり」の観念。終わってしまった世界(=映画)にどんな不必要なものを詰め込んでも構わないだろ?そんなコーエン兄弟のシニシズムの声が聞こえてくる。
彼らは映画(=世界)を信じてない。スクリーンの平面にある「果てしなき有限」な世界のことを。
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