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[コメント] 男はつらいよ 寅次郎恋歌(1971/日)

序盤の倍賞千恵子が歌をうたうシーンは白眉。歌をうたうだけでその場を完全に一人舞台にしてしまう。これほどの力量を持つ女優だったればこそ、渥美清の寅さんの相手役が務まることに納得。
シーチキン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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志村喬とのやりとりや博前田吟の母親の葬式のシーンなど、いかにも日常の暮らし、生活にスポットをあてたエピソードが多いだけに、終盤の池内淳子とのやり取りが際立つ。

惚れた女の苦境を察し、何かできることをと思っても「金ずく」では自分はどうしようもないと力足らずを悟りながらも、歯を食いしばってできることはないかと訪れる寅さんの胸中と男の純情は確かに泣ける。

とりわけこの点では、短いながらも寅さんの啖呵売のシーンも心に残る。何とか金をつくろうと商売に精を出すが、所詮はヤクザな稼業。お巡りさんから「許可証あるの?」と言われるとそそくさと荷物をまとめて引き上げる。次の場所ではなかなか本を買わない客に「この程度の本くらい読みやがれ」と悪態をついても、お巡りさんからまた「許可証」と言われてそそくさと引き上げに、おまけにそのお巡りさんから売り物の本をつまみ上げられて「くだらない本を売ってるなあ」と言われても何にも言い返せない肩身の狭さ。

「フーテンの寅だ、気ままな旅暮らしだ」と言ってみても、惚れた女のための金の工面どころか、お巡りさんにちょっと声をかけられただけで何も言い返さずにそそくさと引き上げざるを得ない、そういう境遇なんだということを、一切の説明を排して描いた。映画としても素晴らしい完成度だと思う。

そして訪れたマドンナの家で、寅さんが思い知らされるのは、その惚れた女が自分とは住む世界が違うということだった。さらりと「私も旅暮らしをしてみたい。家も何もかも捨てて旅に出てみたい。」という池内淳子の台詞は、むしろ絶対にそうしないからこそさらりと出てくる言葉なのだ。

志村喬から聞いた電灯の下で家族そろって夕食をとる光景は、まさに寅さんのような旅暮らしには、本当にのどから手が出るほどほしいものであろう。そしてそれが自分のような者には絶対に無理だとわかっているからこそ、あこがれをかきたてる光景だ。

しかし、池内淳子が同じ話を聞かされ、「いいわねえ」とあこがれを語っても、それは寅さんが抱いたあこがれとは決定的に違う。電灯の下で家族そろって夕食をとっている身にとっては、むしろそのことの幸せさを実感してみたいからこそ、寅さんの旅暮らしに、そしてそこから見る夕食の光景にあこがれを抱く。

(ひょっとしたらこのやり取りは、博の母親の葬式の場での兄弟たちの言い合いを受けているのかもしれない。博の母親はやりたいこともできずに我慢と忍従を強いられたのか、それとも幸せな人生を送ったのか、そのどちらが真実だろうか。母親亡き後になっては永遠にわからないが、それでも人はどうだったのだろうかと考えずにはいられない。この問いについての山田洋次監督なりの「答え」かもしれない。)

その決定的な違いに直面した寅さんは、寅さんだからこそ、寒風吹きすさぼうがどうであろうが、トランク一つを下げて旅に出るしかない。これほど、身を切るような切なさはかつてなかった。

それだけに、ラスト、冒頭の旅芸人一座との明るい再会は、お約束だろうと、多分こうなるだろうとわかっていても、本当に明るい気持ちにさせてくれる。これがないままのラストでは、なんだか、ドストエフスキー級の悲劇を見たような、人の業とか性とかどんより重たいものを背負い込んだまま、「二度と寅さんなんか見ない」と思い込んで終わるところだ。

しかしそうはせずに、そしてその切なさを完全に吹き飛ばさないでいながらも、ああ、生きていくっていうことは良いことだなあとさりげなく思わせるから、寅さんの映画は素晴らしい。

(評価:★5)

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