[コメント] タクシードライバー(1976/米)
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雨に濡れた街に滲むネオン。トラビス(ロバート・デ・ニーロ)が眺める街そのものが、光で描いた幻のよう。
ラスト・シーンでは、街のネオンは更に抽象的な色彩の帯のようになり、バックミラーに映るトラビスとベッツィー(シビル・シェパード)の表情の周りを、眩暈のように巡る。彼女がタクシーを降りた時、このシーンで初めて、鏡を介さずに二人が向かい合うのだが、あの強烈なネオンが画面から去ったその光景は、夢から覚めたような印象を与えてくる。だがトラビスはまた一人、色彩眩い光の中へ帰るのだ。
このラスト・シーンのようなバック・ミラーの使い方からは、トラビスが、鏡に向かって話し続けるナルシシズム的な人物である事が推察できる。トラビスが鏡に向かって一人、「俺に話しかけてるのか?」と繰り返す場面は有名だが、そもそも、他者と鏡を介して会話を交わす、というシチュエーションを用意したいが為の、タクシードライバーという職業設定だったように思える。不特定多数の他者と接するが、直接向き合う事は無い、タクシードライバー。
トラビスの、大統領候補暗殺未遂にしても、それが失敗した腹いせのような、チンピラ皆殺し作戦にしても、ベッツィーやアイリス(ジョディ・フォスター)といった女性を奪われた、という一方的な嫉妬が動機ともとれるような流れになっている。彼が拳銃をぶっ放すのは、要は自慰であり、射精である。
ちょっとしたボタンのかけ違いで、結果的には英雄になったトラビス。ここで肝心なのは、射殺されたポン引き(ハーヴェイ・カイテル)が、決して悪い奴には見えず、アイリスは彼を慕っているようにも見えるという事。銃撃戦が終わった後も、トラビスの「活躍」を報じた新聞記事や、アイリスの両親からトラビスに贈られた感謝状は映されるものの、アイリス本人が喜ぶ姿は映っていない。
トラビスの正義感は非常に単純素朴なものなので、彼の潔癖さや排他性は、世の粗雑な道徳観とそう隔たったものではない。世の中から疎外された男として描かれ続けたトラビスは、最後には社会に居場所を見出したようではあるのだが、その事自体が、観客である僕らには、何か違和感を覚えさせる。この、ハッピーエンドにも、アンハッピーにも落ち着かない不安定さこそ、この映画を忘れ難いものにする。
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