[コメント] バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985/米)
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ドクの部屋で、エジソンの肖像写真の隣に、ベンジャミン・フランクリンのそれが置かれているのが印象的。フランクリンは、ジョージ・ワシントンらと共に建国の父と呼ばれる存在であり、稲妻が電気である事を実験で証明した人物。その、凧を用いた実験の、空へ向かって伸びる長い糸のイメージは、稲妻が重要な要素となる点も併せて、劇中の終盤でドクが挑戦するタイムトラベル実験での、長いケーブルを連想させる。
「修道女のようだ」と思っていた母親が、タイムトラベルした先である過去の時代に、予想外のビッチぶりを見せる場面には、表面を綺麗に取り繕うような道徳への皮肉が込められているのだろうか。それと対置されるような形での、「未来はより明るく、解放的に!」という、いかにもアメリカ的な楽天主義、進歩観は、マーティが帰った未来での父の成功や、両親の物分りのよさ、デロリアンの飛行、過去での、若き日の黒人市長の覇気や、ロックを演奏したマーティの言う「君たちには雑音でも、子供たちにとっては違う」という台詞など、随所に見られる。
同時に、古き良きアメリカを懐かしむという雰囲気もあり、アメリカ人にとっては『三丁目の夕日』のような所もあるのかも知れない。そもそも、未来への信頼感そのものが、アメリカという国への郷愁そのものだとも言えるのではないか。フランクリンが発明した避雷針と同様の原理で「未来へ帰還」する事を主題とするこの映画は、アメリカという国へ向かってBack to the Future しているような面もあるのだろう。
そうした、明るくアメリカ的な映画であるだけに、そこに暗雲をもたらすのが、アラブ系のテロリストだというのが、なんとも不気味に予言的...。そこにまた、他ならぬ原子力が絡んでくるのも、日本人としては微妙な感じがしないでもないわけで。かつてのインディアンと同様の、「わけの分かんない、平気で人を殺す野蛮人」扱いをアラブ人に対して平気で為すようなアメリカの無邪気さそのものが、災厄をもたらすような事もあるんだよな。
ただ、マーティと父に共通する、「もし失敗したら、と考えるとゾッとする」という消極性が、却ってそれ自体、ゾッとする程の損失を未来に与えているのではないか、と問いかけているようなこの映画、月並みと言えば月並だけど、なかなか心に染みるものがある。映画が、時間を操る芸術なのだと実感させられるし、それを軽妙に娯楽に持っていく手際が素晴らしい。
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