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[コメント] ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969/日)

たとえば、今のルーカスにILMなしで映画撮る度胸があるか? スピルバーグに過去のライブフィルムをくっつけて映画創るタフネスがあるか?
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 怪獣ファンとして、これをリアルタイムで見せつけられたら痛恨であったろうと思う。あの主題歌を聞かされれば、映画館で死にたくもなっただろう。しかし今だからこそ、この一本を冷静に観ることが出来る。

 ゴジラが夢の中に出てきて、少年を勇気付ける。鍵っ子にして、いじめられっこの少年の唯一の楽しみが夢の中でミニラに出会うこと――これは、高度経済成長期の終焉からオイルショックの殺伐とした空気に切り替わる過渡期に描かれた、地味で野暮ったい『ネバー・エンディング・ストーリー』なのだ。

 ゴジラというそもそも暴力的な題材で、自己否定になりかねないにもかかわらず、何故いじめを取り扱わねばならなかったのか? これは推測でしかないが、監督である本多猪四郎は解っていたのだと思う。怪獣好きの少年が少年たちのなかで、えてしてマイノリティであることを。そういう子たちが鍵っ子やいじめられっこ、後にオタクや引きこもりになってしまいかねない予備軍と大きくリンクしていることを。

 円谷の不在という過酷な偶然から、このゴジラは本多が撮ったゴジラの中で、唯一本多だけのものだ。初めて撮った特撮シーンも含め、映画全体が強く優しいメッセージに溢れている。しかし、この映画は優しいだけじゃない、厳しくもある。いじめられっこが現状を脱するには自分で何とかするしかない、この映画の根本にある理念はそれだ。大人は結局のところ何もしてくれない。してやりたくとも、してやれない。何も知らず、最後の最後まで仕事にいそしむだけの父親。事件が過ぎ去り、何事もなかったかのように戻った日常で、いつものように息子を学校へ送り出した後、“もしも”を想起し、隠れて涙する母親。ミニラになかなか手を貸そうとしないゴジラ。そして少年をどこまでも見守りながら結局は何もしてやれなかった天本英世の役どころには、これを撮った本多自身がだぶる。

 何より最後が秀逸だ。事件で一躍アイドルになった一郎少年を、いじめっ子たちが、手のひらを返したかのように、自分たちの仲間に勧誘しようとする。ところが一郎少年はその誘いを突っぱねる。自分を屈服させてきたいじめっ子達を、誰の力も借りずに突っぱねる。つまり少年は、いじめっ子達を避けるでもなく、復讐するでもなく、ハードルとして乗り越えたのだ。そしてその後、ひとつの映画的しかけをもって、少年といじめっ子達はそばを流れる川のようにゆるやかにひとつになっていく。それは無頓着な大人へのささやかなアンチテーゼであり、それを介した絶妙の演出だった。“予定調和”ではない“調和”だった。

 怪獣と怪獣を愛する少年達への本多の心がここにある。

(評価:★5)

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