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[コメント] トリコロール/青の愛(1993/仏)

「色は単なる色であり、別に深い意味はない。」キェシロフスキはそう語るが・・・
Ribot

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 トリコロール、三色旗。要は三色あればいいわけだ。しかしトリコロールと言えば主にフランスの三色旗を指すし、『トリコロール』三部作もフランス国旗と同じ色をモチーフにしていることを考えると、先のキェシロフスキの言葉を額面通りには受け取れない。キェシロフスキ一流の人をけむに巻いた発言と解釈するのが妥当だろう。

 さて、そうなると青は「自由」。キェシロフスキは何を表現したかったのか。

 日本では憲法で思想、信教、表現、職業選択、学問などの自由が保障されている。フランスのお国事情は知らないが、そう大きく異なるものではないだろう。いずれにしても、これらの自由には大前提がある。当たり前すぎて誰も口にしないが、それは生きていてこそ、ということ。

 不幸な事故で夫と娘を一瞬にして失い、厭世的になるジュリー。過去につながるものを捨て去り、過去を断ち切ろうとするのだが、それは逆に過去に囚われていることにならないか? そういう選択をするのも自由と言えるのだろうか? それは生きていることになるのだろうか? キェシロフスキはそんな問題提起をしているように思う。

 過去を捨てたところで、過去という事実は消えない。そもそも思い出したくないこと、思い出すのも辛いことなんて誰にでもあることだ。大失恋をして一晩泣き明かしたことがあるかもしれない。事故や病気で大切な人を失ったかもしれない。でもそういうことの積み重ねで今のその人があるのだ。私はそう信じたいし、そうでも思っていないと人生やっていられない。

 ジュリーは同じ事故に遭いながら、奇跡的に一命を取り留める。それはまさしく「生きなさい」と命を与えられたようなもの。そう、ジュリーは死ななかったのではなく、生まれたのだ。

 この映画では生と死がはっきりと提示される。生まれたばかりのネズミ。そのネズミに対して放たれる猫。夫の愛人の体内に宿る胎児。ジュリーの母親(母親本人よりも、母親が見ているテレビ番組のほうかもしれない。バンジー・ジャンプや綱渡りの映像は死を暗示しているようだ)。そういうものを通してジュリーは生と死を見つめ直すことになるのだと思う。

 ジュリーが前向きに生きようと思うのは、夫に愛人がいたことを知るのがきっかけとなる。そんなことがきっかけになるのかと思う人もいるだろう。そんなに都合良く偶然が、と思う人がいるかもしれない。しかし、キェシロフスキの想いは別にあるような気がしてならない。それはジュリーの運命だったと・・・。

 運命などと軽々しく持ち出すと、形而上の土俵で批評をすることになるかもしれないが、少なくてもキェシロフスキは運命を信じている節があるように思う。『青の愛』に続く『白の愛』『赤の愛』然り、『ベロニカ』然り。そこで起こる一見偶然のように思える一連の出来事は、キェシロフスキにとっては全て必然なのだろう。ジュリーに改めて命が与えられた限り、生きようと変わってほしい、変わるだろう、それがキェシロフスキの願いであり、そうなるための事象はすべて定められたものとして考えているのだろう。

 統合で生まれ変わるヨーロッパ。それはジュリーの姿と重なって見える。統合のための協奏曲は、そのまま人生賛歌のように聞こえてくる。

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 余談ですが、劇中、要所要所でスクリーンが暗転しますが、これは「さて、主人公はどういう反応をするでしょう?」とか「あなただったらどうしますか?」というようなキェシロフスキからの問いかけのように感じました。映画という、情報の一方的な提供と享受のなかで、初めて監督と対話をしたような気分になった作品かもしれません。予想が外れたりすると、キェシロフスキの嬉しそうな顔が目に浮かびます。『おまえさん、まだまだ青いよ』と。

(評価:★5)

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