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[コメント] パルプ・フィクション(1994/米)

パルプ・フィクションのパルプ・フィクションたる所以は「その後」を見せない所にあると思う。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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公開時以来、四半世紀以上経って映画館で再鑑賞(そして初コメント)。もはや「新古典」と呼んでいい映画だと思う。映画を観始めて、この先あんなことやこんなことが盛りだくさん起きることを思い出して、正直うんざりした。やれやれ。

クリストファー・ウォーケンとか。あのベトナム戦争で狂気に堕ちた彼がこうして帰還したかと思うと感慨深い。その時の仲間のデ・ニーロは『ジャッキー・ブラウン』ですっかりボンクラになってますけどね。

ハーヴェイ・カイテルも最高。あの少女売春のポン引きやってた時代を思うと出世したもんだと感慨深い。その時に対峙したデ・ニーロは『ジャッキー・ブラウン』ですっかりボンクラになってますけどね。

タランティーノが後々『イングロリアス・バスターズ』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で「歴史のもしも」をやったことを考えると、彼らの「あの役のもしも」をやったようにも思えます。それは、トラボルタも同じだな。同じか?

この「新古典」の公開当初、「あるエピソードでは死んだキャラクターが別のエピソードに出てくる」といった言説が流布し、それが「独立したエピソードの羅列」「パルプ・フィクションのパルプ・フィクションたる所以」のようなことが語られてきたように記憶しています。きちんと時系列に並べ直せば、上記のような矛盾は一切無いんですけどね。この誤りに気付くと、今度は「時系列バラバラ」が殊更取り上げられるようになるんですが、おそらくタランティーノの真意は、時系列を崩すことよりも「視点を変える」ことにあったと思うんです。『レザボア・ドッグス』でも『ジャッキー・ブラウン』でもやってますしね。そう考えると『キル・ビル』が初めての「一人称」だったように思います。

私は、パルプ・フィクションのパルプ・フィクションたる所以は「その後」いわゆる「エピローグ」を描かない所にあると思うんです。

チョッパーで逃走したブルース・ウィリスと彼女の「その後」、ティム・ロスとハニー・バニーの「その後」、カマ掘られたギャングのボスの「その後」、啓示を受けて足を洗ったサミュエル・L・ジャクソンの「その後」。

「無駄話とバイオレンス」が「死と隣り合わせの日常」という時代性であるのと同様に、この「エピローグのない刹那的な逸話」も時代性の一つのように思えます。「めでたしめでたし」と言えない先の見えない時代性。

もしかすると、「その後」を描かない物語で、クリストファー・ウォーケンやハーヴェイ・カイテルの「あの役の(もしもの)その後」を描くという、壮大なネタだったのかもしれませんがね。

(2022.07.31 池袋HUMAXシネマにて再鑑賞)

(評価:★5)

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