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[コメント] 菊次郎の夏(1999/日)

溺れないのが当たり前
ペンクロフ

たけし演じる菊次郎は劇中でガンガン溺れていましたが、そういう話ではないです。

こういうふわーっとした映画はいくらでも感傷的になりうるし、そういうベタベタな映画もたくさんある。センスある監督が抒情に溺れりゃ、まあとりあえずは口当たりのいい映画にはなるんだろうと思う。

この映画はそういう映画とはかなり違う。この映画は夏の記録ではなく、夏の物語でもなく、夏の「思い出」そのものだ。思い出なんてものはいつもふわーっとあやふやで、ハッとするほど鮮やかで、びっくりするほどいいかげんだ。この映画のまんまである。

それでもこの映画はさぶいところはさぶいように、退屈なところは退屈なようにできている(劇場映画として許される範囲内でだが)。どーんと盛り上げようとはしていない。盛り上げるのが演出の仕事と考えれば北野武はほとんど仕事をしていないのだけど、盛り上げるということは酔うということで、感傷に溺れるということでもある。これは溺れていては決して掬いとれない、他愛ないがかけがえのない「思い出」を描いている映画だ。だから盛り上がらなくてもまったくノー問題だと思った。つまり、細川ふみえの恋人がロボコップ演芸みたいなことをする場面があるでしょう。少年にはウケてる。でもちょっと引いた画になったときに、彼らは風景になってしまう。それはさぶいような微笑ましいような、なんとも微妙な風景だ。ここでシーンがひとつの思い出と化す。この映画はこんなことの繰り返しで、たくさんの泡のように他愛ない、しかし愛しい思い出が積もっていく。

凄い芸人は、客席のいちばん後ろに「最も厳しい目で舞台の上の自分を見つめる自分」を置いている。それはたぶん、世界でいちばん点の辛い観客(自分)だ。この映画の引いた画は、板の上に立ち続けたビートたけしにとってはごく当たり前の、観客席最後列に座る自分の目線なんだろうと思う。そんなもう1人の自分がいるのだから北野武が溺れないのは当たり前で、いやむしろどうしても溺れることができない、ある意味では不憫な人なのだ。北野映画はその視線をシレッと映画にとりこんでいる凄さがあるから、観る人によっては「うわー天才だ!」と大騒ぎになるんじゃないだろうか。なんとなくの推測ですが。

どうでもいいことだが、その昔ツービートは下手(左)がボケのたけし、上手(右)がツッコミのきよしだった。この映画では競輪場でのたけしと少年、バス停でのたけしときよし、いずれもたけしはツッコミとして上手にいた。アホな感想だけど、ずいぶん時間が流れたんだなあと思った。

久石譲の音楽はとても気に入ったが、同時にうるさいとも思った。たぶん、この映画で流れるにはいい曲すぎたんだと思う。

(評価:★4)

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