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[コメント] バトル・ロワイアル(2000/日)

R指定の議論がなければ、もうちょっと高い点を付けたと思う。この映画を賞賛する人は、美化するより先に自分の趣味の悪さを自覚すべし。(2002.3.29レビュー書き直し)
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







文章はかなり書き直しましたが、主旨は以前と変わっておりません。R指定に反対する声は、無理に美化しようとしてこじつけてるとしか思えない。そのために作品のイメージが悪くなった、というものです。前回は、映画批評からはずれるから、と言って、映画が子供に与える影響についての議論を省略しましたが、今回、それを詳しく書くことにしました。前回、投票をくれた方々、ありがとうございます。

それで、書き直したら……すみません、ものすごく長くなりました。ここまで長いレビューを書いたのは初めてです。そういうわけで、3つの章に分けて書くことにしました。

第1章 R指定への意見、あれこれ 

 R指定についての考察です。作品の批評が読みたいという人は飛ばしてください。

第2章 映画批評

 R指定の議論を抜きにして、純粋に映画の仕上がりを批評します。R指定の議論が無くても、映画はあまりよい点をつけなかったであろうということを述べます。

第3章 R指定拒絶が映画を駄目にした

 R指定の議論と映画批評の議論を同時に進めます。それにより、R指定を否定しようとする意見によって、いかに僕のこの映画への評価が下がったか、また、R指定を逃れようとした監督たちによって、映画がいかにつまらなくなったかについて述べます。

なお、本文中では『バトル・ロワイアル』を「BR」と略させていただきます。

---------- 第1章 R指定への意見、あれこれ --------------------

この映画が公開された頃は、R指定についてネット上でも激しい議論がおこなわれていた。僕は「BR」ファンのサイトをいくつか回って、議論を閲覧させてもらった。その結果、説得力を持った意見は少ないなあ、と感じたのだった。

ことわっておくと、僕はこの原作が好きだった。子供への影響も、どちらかと言えば、他での教育がきちんとしていれば、どんな映画や本を見ても大丈夫だという考え方だ。ところが、その僕が見ても、R指定に反対する声は「?」と思ってしまうものが多いのだ。

R指定についてよく見かけた意見と、それに対する僕の考えを列挙してみる。なお、これは主に「BR」ファンのサイトで見かけた意見であり、シネスケの特定のコメンテータを指すつもりはない。また、シネスケでは見ていない意見も書いておくことにする。

◆例えば「この映画は、大切なことを教えて(考えさせて)くれる。」という意見。

 命の大切さ、友情、教育、戦争……と「大切なこと」には色々あるが、多くのファンがこう言っている。何かについて学んだり、考えたりした、というのは事実だろう。でも、それでR指定を逃れられるのだろうか?ドラマなんて、スプラッターにだろうがポルノにだろうが付け加えることはできる。さらに言うと、ファンが、この作品から学んだことというのは、他のドラマを見ても学べるようなことばかり。「灯台のシーンから、友情は簡単に崩れるものだと思いました。」そんなのいじめやケンカをテーマにしたって描けるよ!この意見については第3章でも詳しく述べます。

◆例えば「他にも制限すべき映画はある」という意見。

 (当時よく槍玉に挙げられていたのが『プライベート・ライアン』だった)でも「じゃあ、その映画もR指定にしましょう。」と言ったらあなたは納得しますか?「あの映画が制限されていないのなら、「BR」も制限すべきではない」という理屈が成り立つなら、「あの映画が制限されているから、「BR」も制限しろ」という理屈だって成り立つはず。

 その答えとしてか、「子供への悪影響をなくそうと思ったら、殺人を扱った映画は全部R指定にしなけらばならないじゃないか。」という意見もよく見かけた。R指定の基準が明確になるなら、それはそれでいいと思うけどね。それにスプラッターから些細な殺人描写までを、すべて「殺人シーン」の一言で同じ扱いにしているのはどっちだ?と言いたくなる。

◆例えば、「表現の自由に反する。」という意見。

 これも全面的に間違っているとは思いません。でも、どうでしょう?映画は確実に公開されていますし、映倫だって、こんな映画を作るなと、直接圧力をかけているわけでもない。詭弁に聞こえるかも知れませんが、でも、この類の意見を読んでいると、時々、映倫のやっていることを戦時中の政府の情報操作と一緒にしていないか、と思いたくなるものがあります。

◆例えば、「殺人シーンを制限していては、子供は殺人の残酷さを学べない。」という意見。

 だから血を吹いて死ぬ人間を見せないとだめですか?テレビや新聞のニュースを親子で語り合ったりするのでは不充分ですか?殺人の現場を映したニュースでないと役に立ちませんか?子供だって見たことをないものを想像するだけの力を持っている。自分が怪我をした痛みから、他人の痛みを想像することはできる。身近な人の病死から、殺人について考えることもできる。

◆例えば「中学生こそ見るべき映画だ。大人が見ても意味がない。」という意見。

 どうして?大人だって、ただの殺し合い映画を楽しみます。「金八先生」や「中学生日記」が好きな大人だっている。そしてそういう大人は馬鹿ではない。僕がもっとオヤジだったとしても「BR」への感想は変わらなかったでしょう。『2001年宇宙の旅』を、ベストに選ぶ僕は、相変わらず『アルマゲドン』などというストレートな、「かっこよければいいのさ」調の映画を楽しんだりしている。

◆例えば、「子供に影響を与えるのは、映画だけではない。」という意見。

 その通り。でも、だからといって、映画を制限しなくてもよい、という結論を導けるでしょうか?酔っぱらい運転や、居眠り運転のほうが確実に事故につながりますが、それでも速度制限が無くなることはあり得ない。この意見についてはもう少し後で詳しく述べます。

◆例えば「自分が育てた子供を信用できないのか?!」という意見。

 はい(笑)。などと冗談めかして答えたるのはまずいか。これはYesと答えれば、子育てに失敗したと認めることになるので、とてもYesとは答えづらい。それを利用して答えをNoへと導くものであり、公正なものとは思えない。また、同時に他人を信用しないのは悪いこと、という図式にも基づいている。自分が育てた子供だろうが、他人である以上、どんな行動をとるかはわからない。自分のことでさえわからない場合もあるのに…。

……と、まあこんな感じ。簡潔に述べたから、「いや、私たちはもっと深く議論した。」という人はいるだろうけど、じゃあR指定を否定する根拠は何か?と問われたら、結局出てくるのは、こうした発言ではないでしょうか。

それから、これらの意見を僕は全面的に否定する気もない。ただ、これらの意見が説得力を持っていないことは確かだと思う。

「じゃあ、お前はどう考えているんだ?」と言われそうなので、僕なりの意見を書いておきます。

僕が最初に「どちらかといえば……」と言ったのは、次のような考えからです。世の中は犯罪者ばかりではない。そうでない人はたくさんいる。じゃあ、そうした人たちは、残酷な映画を見たことがないのか?「悪い因子」を持っていないのか?そうではないはずだ。彼らが犯罪に走らないのは、「良い因子」を持っているからだ。たとえ「悪い因子」を持っていたって、教育によって「良い因子」に目覚めれば、犯罪には走らないはずだ……と、まあ、これが僕の意見です。

本当はここから、「じゃあ、道徳教育はどうすればよいのか」という議論を進めなければならないし、「道徳教育がすべての子供に行き届くのか?」という問題もあるのだが、映画から完全にはずれるし、自分でもまだわからないことが多いので省略(ついでに言っておくと、たとえ道徳教育がすべての子供に行き届かなかったって、「道徳教育は無駄」と結論することはできない。何もしないよりは、ましだからです)。

僕がR指定を批判するとしたら、これが根拠である。というより、これ以外に説得力を持った根拠は無いと思っている。高慢に思われるかもしれないが、これはじっくり時間をかけて考えた結果だ。僕の頭の中では、いくつもの仮説が浮かび、そして潰れていった(先ほど列挙した意見がそうです)。実験や調査を行わない、机上の議論では、これが限界だと思う。

また、映倫を安易に批判する気にはなれない。映画の悪影響は確実にあるからだ(だから「どちらかと言えば」と書いたのだ)。「子供に影響を与えるのは映画だけではない。」という発言通り、「映画も含めて」人間を形成するものはたくさんある。親や教師から直接、ああしなさい、こうしなさいと言われなくても、何気ない出来事から、人間は新しいことを学び取っていく。映画もその一つだし、大人だって影響を受けます。(そういった立場から、教育を見直している人たちもいます。別に監視の目が行き届いたガチガチの管理教育を作ろうというわけではなくて、学校教育以外の日常生活に、子供の成長に影響するような要因はないかを研究している人たちのことです)

それから、他にも重要だと思うことを、二つほど。

生まれてから一匹だけで育てられた雄のサルは、成長してから初めて雌のサルに出会っても、性的な行動には出ないのだそうだ。性本能があるから、男は女に興味を持って当然という考え方は間違いで、ポルノを楽しむのは、それが快楽だと学習した結果なのだとか。言葉を理解しているチンパンジーとして有名なアイは、子供アユムが生まれたとき、子育てをしようとしなかったそうだ。母性本能が働かず、人間が子育てを教えることで習得したらしい。サルでさえ本能よりも学習の方が上回っているのだ。

さて、殺人の映画ばかり見て育った人間は、何を学習するだろう?

もう一つは、多くのR指定反対派は、狭い視野で「子供への悪影響」を考えていてるように思う、ということ。つまり、映画対個人、という見方だ。けれどもR指定を支持する人たちが心配しているのはそれだけではない。社会全体に残酷な映画や本が溢れ、それが当たり前のようになることを不安に感じているのだ。そして、そういう環境で育った子供は、どのように成長するのだろう?

---------- 第2章 映画批評 -------------------- 

映画への批判は、次の二点を強調しておこう。ひとつは40人の生徒の個性が感じられないこと。もう一つは、ストーリー構成すなわち、川田章吾をキーポイントとしたストーリーである。本来、これらは、原作の最も魅力的な部分なのだ。ところが、何と言うことか、映画はこの二点を無くしてしまったのだ。

原作が出版された頃、ネット上では個人が書いた大量の「オリジナルBR小説」が発表されていた。実は僕自身、ネットで公表こそしなかったが、サークル誌に載せるために、その手の小説を書いた。素人ながらも物語の創作は以前からやっていたが、あんな書きやすかった仕事はない。『スピード』のレビューでも書いたが、基本的な設定さえ決めてしまえば、あとはその場の思いつきで書いていけば話はできるからだ。

普通なら、安物扱いされて済みそうな原作を面白くしていたのは、生徒ひとりひとりの個性がしっかり描かれていたこと。そしてストーリー構成の巧みさだ。原作で川田が、昨年のBRの優勝者だと明らかになったときには、衝撃を受けると同時に、「なるほど、そういう展開があったか!」と思ったものだ。

映画も、確かに多くの「ドラマ」は描いている。だがそれは40人の生徒の「死に様」を描いたのであって、「個性」とは違う。アニメマニアやオカマまでいた原作の面白さはすっかりなくなってしまった。

原作を120分に詰め込むのは無理だろう、という意見をよく聞く。「120分で42人の生徒を描こうと思えば、一人当たりの時間は3分。とても一人一人の生徒を描くのは至難のわざだろう」と。本当にそうだろうか?一度時間を計りながらビデオを見てみるといい。実は3分あれば物語はかなり進展してしまうのである。10秒もあれば生徒の過去の映して、個性を説明できる。それに公開された映画はかなり無駄がある。見ていてイライラした。

ゲーム開始時の、生徒が一人ずつ呼ばれて出ていくシーンや、放送のシーンはもっと短くできる。七原の父親や、キタノの姪なんかは丸ごといらない。悩める大人を描きたければ、キタノを大人の代表として、彼と生徒達の間だけで描くべきだった。アクションシーンのテンポがよいだけに、ドラマ部分のテンポの悪さがよくわかる。よく聞く、「邦画は余計な人間ドラマがテンポを悪くしている」、という言葉の意味が、この映画を見てやっとわかった(邦画を見慣れた僕には、今までよくわからかったのだ)。

映画は省略する部分を間違えている。生徒の個性は確かに物語の本筋とは関係がない。だが、もともと登場人物に個性を与えて、血の通ったキャラクターにするのは、本筋とは関係のない描写なのだ。映画の生徒たちは生きた人間として描かれていない。単なるドラマを演じる人形であり、ゲームのコマだ。

しかもそのドラマの安っぽいこと。「さあ感動してください。」と言わんばかりのストレートな「名台詞」のオンパレードには違う意味で涙が出そうだ。

あと、性描写はほとんどが台詞の上だけで中途半端。これでは、性描写が好きな人からも嫌いな人からも嫌われる。

そして川田章吾のストーリー。彼のキャラクターを立てるのは成功していると思う。山本太郎がもっと若かったら、と残念でならない。しかし、自分の正体を明かすのが唐突すぎる。原作ではもっと自然な会話だったのに。そして、このシーンは、それまで彼に不信感を抱いていた七原と典子が彼を信用するシーンなのだ。もっとうまく描いて欲しいものだ。

そもそも川田が転校生という時点で面白さは半減する。いかにも怪しいではないか。原作では以前からクラスメイトだったから、彼がかつての優勝者であることを知って驚くのだ。

川田の作戦というのも説明不足。理解不足や勘違いで、「七原たちは川田に撃たれたのに、どうして生きていたの?」「どうしてあんな芝居をする必要があったの?」「ゲーム中に首輪のデータを盗む暇があったの?」と思った観客もいるようだ(じっさいにサイトの掲示板で質問してきた人たちがいる)。あの説明では無理もない。「首輪のデータを盗んだ奴がいたんだ。」というキタノの説明に「三村じゃなかったんだな。」などという言葉が添えられていたら、ゲーム中に盗んだんだと誤解するわな。僕は原作を読んでいたから大丈夫だったけど、原作だって「何でその作戦で他の生徒にを助けないんだ?」と思ってしまった。一応、説明はされていて、数回読み直してやっとわかったのだが、映画はそれよりも説明不足ではないか。

もちろん、よいところもたくさんある。アクションが素晴らしい。今まで僕が観てきた邦画のアクションは、何だったんだと思ってしまったほど。それ以外にも、殺人シーンの演出は光っている。「G線上のアリア」なんて鳥肌が立った。

ところが、ドラマや人物描写になると、とたんにセンスが悪くなってしまう。

優等生だってことを描くのに、ゲーム中に数学の公式を暗唱させる、この安直さ。(そんな奴いるか!)

千草貴子は本当に今時の中学生か?「私の顔を傷つけたな。」って、ヤクザじゃないんだから。いくら深作欣二がヤクザ映画を撮っていたからって、これはひどい。

相馬光子がどうしてキタノを見て逃げるの?彼女ならここぞとばかりに彼を殺しちゃうんじゃないの?(原作の彼女はそれくらい残酷です)

時には、生徒の死が台詞と短い映像で簡単に説明されて終わり。おい!原作のドラマはどこへ行った?!

その簡単に説明されたうちの二人(女子)は、教室を出るとき、「ずっと友達だよ。」と言っていた二人だということに、僕はずっと気付かなかった。あれだけの生徒を、とても覚えられないよ(特別編ではわかるように編集されている)。しかも、その二人、「刺し違えて」死んだんだとか。後でパンフレットを読むまで気付かなかった……。桐山か誰かに殺されたのかと思ってたぞ。

特別編では、省略されていた相馬光子の過去のトラウマが描かれると聞いていたから、期待していたのだが……失望(別に児童ポルノを期待していたわけじゃないぞ。そういうのは嫌いだ)。だからさ、そんなに長々と描いたら、映画のテンポが崩れるんだって!数秒の映像で済むでしょ!

---------- 第3章 R指定拒絶が映画を駄目にした --------------------

第1章でR指定について僕なりの意見を述べたが、あれはR指定の一般論だった。「BR」に限定してR指定は適当か?という問題についていうなら、「R指定になって当然」と思う。理由は、「殺し合いを楽しむ映画だから」だ。

いくら感動的なドラマを増やしたって、いくら血の量を減らしたって、意味がない。「42人の中学生が最後の一人になるまで殺し合いを行うという、殺人ゲームを楽しむこと」がテーマである以上、R指定は免れないのだ。

時々この作品に対して、「何故、BR法などという法律が必要なのか。」という批判がある。僕はそうは思わない。こういう非現実的な設定を楽しむという側面が、フィクションには多分にあるからだ。

アルマゲドン』は宇宙飛行の経験もない石油採掘人に地球の救済を依頼するという映画だった。現実を考えると、無茶苦茶な話だが、それがあの映画のアイディアなのである。「BR」も同じだ。BR法なんて、無茶苦茶だが、それを現実的でないと批判していては映画は楽しめない。

しかし、それは同時に、この作品が「殺し合いを楽しむための映画」であることを表している。『アルマゲドン』みたいな無茶苦茶な設定の映画が、他でどう工夫したってバカSFとしか言われないのと同様、この作品も、殺し合いを楽しむためのものであり、感動的なドラマを付け加えようが、残酷描写を減らそうが、道徳的傑作にはなりえないのだ。

この映画から学ぶことが多いのは事実だ。殺す者、自殺する者、脱出を試みる者……42人のドラマがある。自分ならどうするか?彼の行動は正しかったか?命の尊さとは?色々考えたくなることはあるだろう。

でも、それでR指定免除というのは安易すぎる。ならば、人の死、それを悲しむ人々、諦めずに生き延びようとする人、こういったドラマを描いたパニック映画はみんな傑作か?戦争映画はひたすら死と破壊を描いても、ドラマを付け加えれば、残酷ではなくなるのか?

第2章でも書いたように、「BR」は「基本的な設定だけを作って、あとはその場の思いつきで書いたような物語」である。僕の感想は、(映像や、物語の質はかなり違うが、傑作かどうかで言えば)『タイタニック』や『ディープ・インパクト』とそれほど評価は変わらない。

「タイタニック」や「ディープ・インパクト」そして「BR」は、極限状況を描いた映画といわれている。この分野の傑作と言われる『蠅の王』を、僕はまだ見ていない。だが、少なくとも「BR」が極限状況の傑作ではないことはわかる。もし僕が「極限状況」での物語を書くなら、社会にはどんなルールがあるか、あるいは、友達との間には、どのような暗黙のルールがあるかをよく考える。そしてそれらが崩れていく様子を丁寧に描く。自分にそんな物語がどこまで書けるかは疑問だが、少なくとも「仲が良かったはずなのに、いざとなると簡単に殺し合ってしまうなんて、友情ははかないねえ。」で終わった「BR」は、傑作からはほど遠いと思う。

そして、下手に観客を感動させようとすると、また、血の量を減らしすぎると、映画の面白さを損ないかねない。実際、僕が映画を見たときの不満がそうだった。

灯台の銃撃戦はファンからは評判が高い。でも、僕はすごくつまらなかった。役者が素人とは言え、台詞は怒鳴り声で聞き取りにくい。その上、映像もえらく安っぽく見えた。血の量が少なすぎたからだ。別にスプラッター趣味があるわけではない。だが、そんな僕でさえつまらなく思ってしまったほどの仕上がりだった。

「「さあ泣いてください」と言わんばかりの稚拙なドラマ」「血の量が少ない安っぽい映像」「中途半端な性描写」これらは全部、R指定を逃れたい、という作り手の意思の表れだろう。作り手の余計な考えが、映画そのものをつまらなくしてしまったのだ。

その上、美化しようとするファンの声によって、マイナスのイメージが焼き付いてしまった。第1章で述べたような意見が大量に発せられているのを見て、自分の悪趣味さを隠すために、R指定を否定しているようにしか思えなかった。ひどい表現を使うが、「偽善的」に感じてしまうのだ。映画そのもの以外のところで評価するというのは、よくないのかもしれないが、この映画はあれだけ議論が起きただけに、R指定の問題は切り離して考えることができない。そういう理由で、僕のこの映画への評価はさらに下がってしまった。

繰り返すが、「BR」が感動できることは否定しない。何かを学んだというのも事実だろう。悪趣味なのも悪いことではない。悪趣味なのと、実際に人を殺すのには大きな隔たりがある。

でも、結局、僕らは悪趣味なのだ。いくら感動的でも、潔癖な人は殺し合いの物語なんか見たくないのだ。そうした人たちから後ろ指さされても、文句は言えないのである。

何故みんな悪趣味だと認めないのだろう?何故みんな自分で自分を否定しようとするのだ?『スターシップ・トゥルーパーズ』や『時計仕掛けのオレンジ』で、5点をつけながら「馬鹿映画だ。」「変態映画だ。」とコメントしている人がいるのを思い出すと嘆かわしい気持ちになってしまう。

結局この映画は(僕も含めて)娯楽作品として楽しむのが正解だったのだ。

(評価:★2)

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