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[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)

水の記憶、闇のエロス。
ヤマカン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 宮崎アニメの為の宮崎アニメ。日本アニメーション史の為のアニメーション。ゴダールの「映画史」に匹敵する最高級のドキュメント。正直言って子供に見せるのは惜しい!ていうか見せるなよ勿体無い!!これは宮崎アニメの20年史(それ以前は取り敢えず忘れて)を共に生き抜いた者が、ひとりこっそり、酒でも片手に涙して観るくらいのほろ苦いレトロスペクティヴなのである。勿論本作はそれに留まらず、「もののけ姫」によって自ら終止符を打ったアニメーションの半世紀を自ら復活させるという奇跡的偉業には相違ないのではあるが、冷静に見ても矢尽き刀折れた感のある21世紀の日本アニメーション界を生き続ける者達が、万感の想いでその眼差しを向けるというそのセンチメンタリズムは、今や許されて罰の当たるものではあるまい。  アニメの今が、それ程までに絶望的だというのは、誰の眼にも明らかではないか。

 冒頭。全く期待してなかった(あの予告篇の不出来は確信犯か??)観賞前の気分にピタリと嵌る。良くない。妙にごわごわ動く車の内部。いてもいなくても良い両親のデザイン(どうせブタになるのだ!)。ただ使いたかっただけのCGフォロー。その割に車窓の外は古めかしいBG引きで、こういうのこそ3Dにせんかい!!縦構図のフォローは殆ど3Dで処理されていたが、長年の夢が叶ったのか嬉しそうに多用して、悉く失敗。何より速過ぎるよ!  眼前に見晴るかす湯屋の全景。レイアウト悪ぃー。ここに限らずカメラが安定しない。計算が成り立っていない。高畑なら異世界に飛び込むまでは千尋の眼に寄り添う様にローポジションで押すだろうに、妙な所で登場する俯瞰ショット。これがまた画単体としても決まらない。「三千里」で見せた天才的な俯瞰レイアウトすらここにはない。無理矢理リズムを作ろうという目的以外に何の意味もないズームにパン。天才故の不備。宮崎の弱点が出てしまった。それにしても湯屋の橋や柱の朱は折角なんだからもっと往年の大映みたく極彩色にすべきじゃないか!!この地を「失われし場」として表現したかったのかも知れないが、亡者に合掌する聞き分けの良さは果たして本作に必要だったか?ジブリの御上品さ(その実そうでない事は誰もが知ってるのに・・・)が裏目。

 それが突如、劇的な変化を見せる。闇が姿を見せたのだ。忽ち活気付く湯屋。魑魅魍魎のイマジネーションの洪水。それを支えるべきカメラが本調子になるには若干時間も掛かったが、生気を取り戻したアニメート表現は尻上がり!何よりあの闇!中盤から後半の大部分を占めるこの「闇」が語るものは如何に大きいか。「闇のファンタジー」とはル・グィンだったか、何かを指して羨むように宮崎が附した称号だったと記憶しているが、遂に宮崎自身がそれを表現し切ってしまったのだ!ただ暗くしただけでは見えなくなってしまう。明るくすればリアリティが減ずる。アニメは適当に光源を置いたりセルとBGとの明度のバランスで逃げようとしたり苦心して(「火垂るの墓」のセルの暗色が異様に明るかったのは改めて吃驚!)、結局「ジャパニメーション」とアメ公がバカにするに至るどうでも良いが一応は独特な陰影の表現を漸く獲得したのだが、それを宮崎はとうとう飛び越えた!「もののけ姫」の森厳たる夜すらここにはない。暗く、おどろおろどしく、卑猥で、そして静かな「闇」が、そこに広がっているという何たる快挙!新しい宮崎のエロス、「闇のファンタジー」の誕生である(それにしてもやはり湯屋の内部は「総天然色」でギラギラにして欲しかった!)。

 闇のエロティシズムに誘われて、もう一つのエロスが顔を出すのをわれわれは見逃すまい。「水」である。ガラスから何から、セルにごちゃごちゃ付けられたハイライトや二号影が時代掛かって五月蝿いなぁと鼻白むもやっと納得。総てはこの水の生々しさの為。ここで宮崎アニメの、特にオールドファンが涙すべきなのは必定の事実。「水の記憶」と評された(誰が評したんだっけ?)あの「カリオストロ」以前の、生々しく淫靡な宮崎アニメの復活が、ここに強い批判性を以って甦った瞬間に立ち会える喜び!これを自作の使い回しとはどの口が言うか!?アニメへの無知、その野蛮な心性を心底怨むが良い。アニメにとって「闇」とは何か?「水」とは何か?それはアニメート表象の20年を作り上げた創造主自らが立ち向かった、アニメート表象自身への厳しく激しい問い掛けのプロセスなのだ。それすらも解らないバカが、おにぎり食べながら千尋が涙するその異様に大きく黒い涙の素晴らしさに気付かないのは至極当然。  それにしてもこの水の強度はどうだろう!水の猥雑さを空への飛翔感へと転化して、同時にロリコンの如何わしきエロスから(ある程度・・・)解放された宮崎アニメが、今や開き直ったかの様に様々な液体や体液をどうよ!どうよ!とばかりに千尋に浴びせ掛ける!体液浴びせ掛けと言えば確かに「もののけ姫」のサンとて同様だが(「もののけ」で唯一印象的なのはポスターのサンの口に付いた血の生々しさだ、と私に語った某教授の言葉が懐かしい)、本作では多種多様の水のヴァリエーションでそのモティーフの主張は比ではない。あの海をCG処理したのはデジタル大成功例の一つ。その質感の違いを云々する者は結局あの「河内山宗俊」の雪を「なんや、ただの紙やんけ」とのたまえる愚か者である。その紙の雪を降らせるタイミングやスピード、カットワークの中での役割等を知り尽くした者のみが果たし得た映画的奇跡を、今この場で味わえようとは!勿論あのデジタル海の泣きたいくらいの透明感は、オクサレさまの臭い垢やカオナシのゲロ(笑)、そして何より千尋自身の涙の雫にまで執拗に付けられたハイライトと二号影のエロティシズムと完璧なまでの対比を成せばこその劇的効果である訳だ。動画の鉛筆線やセルの絵の具そのものに質感等ないというのと全く同様に、CGそのものにも質感等ある筈がない。質感とは、あくまでコラージュの産物なのである。  夥しい「水の記憶」と共に立ち現れた「古き良き」宮崎アニメの歴史は、同時に日本アニメーション史への記憶へと帰着する。宮崎はその事を十全に意識していた。これ以上ないという程の批判的分析を経て、しかもそれを感じさせない程の躍動感を得て復活する「宮崎的」モティーフの数々。コナンのあのダイナミズムの象徴だった「壁伝い」のモティーフは、前以って階段から下を臨む主観ショットを腰が抜けそうに一段一段降りて行くシークエンス(某美容師のにいちゃんが「ああいうコワさって誰もが一度は夢で見るモンですよね?ああいうリアルさを描くって上手いなぁ」と言ってのけたのには脱帽。髪切りも流石にアートである)を伴わなければ、この21世紀には成立しなかった筈だ。「エ!!千尋にやらせるか??」とさえ思わせた縦構図を奥から手前へ2、3歩でダダダッと駆け抜けてしまう所謂「コナン走り」も、こういった入念な批判性があってこその爆発的ダイナミズムであり、これがなれば確かに文字通り「宮崎アニメのパロディ」で終わっていただろう。しかしここまで来れば最早宮崎一人の天才を褒めそやす訳には行くまい。「もののけ姫」の壮絶なる死闘を演じた安藤雅司のIG的リアルさに重心を置いた作画技術がどれ程貢献しているか。ジブリはこの安藤一人を育てただけで充分役目を果たしたのでは、とは言い過ぎか。

 散りばめられた「宮崎的」モティーフはまるで小津映画の豊かな細部のように動的に戯れる(小津映画こそはワンパターンじゃ!!だからこそ日本最高なんじゃないか!!!)。解り易い湯婆婆はドーラ(声まで!)、釜爺はモトロと「ラピュタ」コンビ。少女の成長を助けるには相応しい人選か。ススワタリに到っては最早スター・システム。オクサレさまのドロドロ感は「ナウシカ」の巨神兵。庵野の牙城を切り崩したヤツは誰だ!?一方「トトロ」のモティーフは言わずもがなのススワタリ始め、おしらさまやカオナシ等のもののけ達に分散されてほのぼのと息づく。もののけと言えば元祖「もののけ姫」の造形はハク竜の獰猛な姿にモロが重なる。という事はハクを全身で抱き締める千尋の姿は「もののけ」の抽象性から解放されて「コナン」「カリオストロ」の甘酸っぱいエロスにまで遡り、その20年の時を越えた作品同士の熱い交流には胸打たれずにはおれようか。

 そして極め付けは終盤。畳み掛けるような独特のドラマトゥルギーに絡め取られ、昇華させられるモティーフ達。電車に乗ってカオナシと揺られる千尋、降り立った駅の周辺の情景まで「トトロ」!そこから一転して銭婆の家に辿り着けば、ア!ウルスラの家!!そこで千尋の成長に最大の助力をする(って大して何もしてない所までウルスラそっくり!)銭婆!そこへ迎えに来たハク竜の背中に乗って、ア!飛んだ!遂に飛んだ!空!!「もののけ」で痛みを伴って封じられた「空」の記憶が、「水」の淫靡なエロスの代償として些か偽善的で現実逃避的な「空」が、2時間近くの上映時間を経て、辛抱に辛抱を重ねて、トンでもないスピード感で(メーヴェやキキの穏やかさはもうここにはない。「疾走する哀しみ」さえも抱え込んだその感動的なスピード!)大空を舞う千尋と共に甦った。何と言う僥倖だろう!どれ程この瞬間を待った事か!オマケにこれでは終わらない。その大空で「水」の記憶(=川で溺れた記憶)が「空」の記憶と絶妙なコラボレーションを成した末、どうなったか?落下である!また御丁寧にハクと手を繋いでの落下(これも凄いスピード感!)!ダメ押しとも言える「ラピュタ」の落下のモティーフで完成した、もうこれ以上にないクライマックス。ただ涙が出た。何だか哀しさまで喚起されたような、不思議な涙。何とも一言では言い表し難い、正にキリストの復活を眼の前に見てしまったかの様な、愕然とも言えるその衝撃。もう一度言わせて戴くなら、「奇跡」。私は奇跡を観た。

 願わくば、ここにモティーフの羅列という表層的な意味では済まされない壮絶なドラマを感じない者に、醜くもありながら、それでも「生きたい」という想いを込めて、渾身の力で「今」を越え1日でも長く必死に生き延びようとするアニメーションをいともた易く、その腐り切った眼と溶け出した脳味噌で面白いだのつまらんだのほざく権利を、どうぞ与えないで下さい。無用の輩を、どうぞアニメーションの邪魔にならない所へ駆除して下さい。

 アニメーションが、余りに不憫じゃないですか。

 確信を以って言うが、この作品の後も、アニメは変わらず観る価値のないものであり続けるであろうし、アニメ業界の幼稚さは目に余るものであり続けるであろう。革命的変化は、少なくともこの国家ではあり得ない。少なくとも過度の期待は出来ない。これからも。  だがその中で、死に行くアニメが、渾身の力でその生命を燃やし尽くそうとしている瞬間が、少なからずあるだろうという事だけは、信じるに値する。見捨てるも良し。その無様な姿に笑うも良し。後は各自の「倫理観」に従って行為するしかない。しかし、アニメーションの愛を全身で受け止め(それは正に千尋と、それに代表される宮崎ヒロインの様に!)、想像を絶する意志と「倫理観」でその行く末を看取ろうとする宮崎を深い感慨で見守る事をこそすれ、軽薄で非人間的な視線を送る事が、誰に許されようか?

 「千と千尋」は、実像から虚像(=偶像)へと変化し行く、その避けられない宿命を十字架の如く背負ったアニメーションの、やはり文字通り「復活」の瞬間だったのかも知れない。

(評価:★5)

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