[コメント] 耳をすませば(1995/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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推測するにこれは原作者と脚本家と監督の描こうとしてたものが、嚙み合っていないせいだからと思う。ざっくり言えば、図書カードの記名から思いめぐらす恋心、初恋とその途端の別れの切なさ、自分の親友が好きな男の子が自分を好きというどうしようもない感情などは、原作にあったものだろう。掘り下げていって欲しい感情なのに、あまり掘り下げられない、というか、自分に自信がない生き方は自分で行動を起こして変えていくんだ、みたいな話に転換していく。これはやっぱり宮崎駿の仕業のように思う。どっちかが悪いという話でも、間違っているという話でもないが、ジャンルが違うよ、という気がする。
一例をあげると、聖司の伴奏で雫が歌を歌うシーン。途中から聖司のおじいさんたちも加わっての演奏になり盛り上がる。そして一体感を感じる哄笑と哄笑。宮崎駿お得意の場面だ。この直後に実はその伴奏してくれた目の前の最近気になっていた男の子が、ずっと空想の恋人だった聖司本人だと知るのだが、「もぉ!なんで黙ってたのよ!」と雫は膨れるのだが、そのあとの彼の伴奏で思い切って好きな歌を歌うという体験の輝かしさに作品は触れない。彼女の恋愛感情に劇的な作用を及ぼしたであろうこのことへの思い返しがない。そこに作家の目が向いていない。高校にもいかず自分の進むべき道を見つけて挑戦しようとしている彼と比べて、自分には胸を張れるものがない、という話に焦点が向いてしまう。改悪だとか、間違っているとは思わないけど、見てる場所が違う、興味の対象が違う、という違和感を感じる。言ってしまえば、あの最初のセッションでの多幸感は最後の「大好きだ!」よりも感情のピークは上なのではないか? 成長した雫が自らの初恋を振り返った時に、一番思い出深い場面は、このカントリーロードの歌唱なのか、朝焼けのプロポーズなのか、どっちだろう? 1回のセッションとわっははっという哄笑であっという間に人と人が通じあえる(宮崎駿が自分が「善きこと」だと思っている)一体感の場面の無自覚な挿入は、初恋の「言い出せない」「気持ちが通じるだろうか」という、もどかしさ、切なさ、不安という繊細な機微を題材にしている作品に対しては、ちょっとデリカシーがないように思った。
で、結局この作品で一番魅力的なのは、話のほうではなく絵なのである。西東京、多摩市あたりの坂の多い風景、高台に建つ住宅とその間の長い階段、登場人物たちの顔や洋服の上を移動する木漏れ日、向こうのほうに大きな黒い雲があらわれて天気が崩れていく少し前の空模様、地球堂のベランダで感じる風、夜の多摩の街並みの灯、猫を追って歩く擁壁と擁壁の隙間とその先の知らない住民たちの住む家とクルドサック。並々ならぬ情熱が注がれたこれらの風景が、やはり一番強く感情に響いたのだった。やはり監督としては一番これがやりたかったんだろうと思う。
個人的に掘り下げて欲しかったのは、「小説を読む」だけだった子が「小説を書く」ために、小説以外の本、たとえば鉱石の本なんかを手にする変化に父が気づくシーンだ。「読む」だけじゃ「書けない」ということも、十分示唆的なんだけど、それこそ言いたいことの大渋滞になってしまいますね。
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