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[コメント] 私は貝になりたい(1959/日)

「戦争の被害者」としての日本人。責任者の不在、曖昧。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







反戦映画の名作として世間に記憶されてきた作品ではあるが、正直自分の記憶に留め置くべきほどの映画ではなかった。当時これがテレビドラマとあわせてヒットし受容されたのは、当時の観客(一般的な日本国民)の需要があったということなのだと思う。映画そのものは平凡な作品で、それほど巧妙に作られた作品という印象は受けない。その映画のほとんどは獄中生活の描写に費やされるのだが、そこでもさして印象的なエピソードの語られるわけでもなし、観客が結末を知っている物語が、とくに工夫もなく陳述されているだけという印象を受けた。その為に「私は貝になりたい」という特異なフレーズが浮いたものとして聞こえ、却ってそれが浮いたものに聞こえてしまった為に、キャッチフレーズのようにして流行語になったりしたのではなかろうかとさえ思えてしまう。実際それは、愛する家族のことさえ慮らなくてもいいからという、つまりはそれほど何もかもにも自閉したくなるような絶望感を吐露した独白だったのだが、それまでの楽観ムードが急転して処刑になってしまうという展開の構成からすると、やや印象が唐突で、何故そこまで自閉したくなるような絶望感を抱いたのかの説得力が足らないと思えてしまう。

ともあれそのように、映画の完成度自体としてはそれほど高くない作品と思えるのだが、しかしそれでもそれは当時の観客に受け容れられた。それは何故なのか。そこには、日本人が自分達のことを理不尽な戦争に巻き込まれた被害者として自覚する感覚がある。国民各自が小さな加害者であったこともまた、暴虐な軍隊の横暴に巻き込まれた結果の仕方がない出来事として描かれている。それが当時の観客には、無意識の内に都合のいい免罪符として機能したのではないか。勿論、軍隊の横暴は事実だったとは思うが、しかしそこでただ被害者の自覚だけで終わってしまうのであれば、あの戦争を主体的に反省することは出来ない。あの戦争を主体的に反省することとは、単なる被害者意識や加害者意識を超えて、歴史の事実そのものを見据えて見極めるということだと思うのだが、この映画のような視座に於いては、そのような態度は形成されることがない。この映画は結局視座が曖昧なのではないか。「天皇陛下」の名の下に行われたあの戦争の責任を、当の天皇陛下が負わされることがないように(実際、旧大日本帝国軍隊のそれは責任不在のシステムだったのだろう)、この不条理劇の責任を誰が負わされることもない。だからそれは、結局「戦争が悪い」という極めて抽象的で、かつ空疎なお題目に結びつくしかない。そこでは「戦争が悪い」と言ってさえおけば、誰もが責任を回避出来てしまうのだ。この映画は、そんな大日本帝国(無責任な帝国主義)、ひいては戦後の日本国(無責任な平和主義)の曖昧さを図らずも体現してしまった、曖昧さの映画と言えるのかも知れない。(だからそれは、凡庸な印象をしか齎さない。)

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)寒山拾得[*] sawa:38[*] ジェリー[*] 水那岐

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