[コメント] 至福のとき(2001/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
これはハッピーエンド。オレがハッピーエンドにした。ラスト、呉頴が独りで歩いてエンドロールとなるのだけれど、オレの頭の中ではどんどん勝手に物語は続いていた。あるいは構築されていった。映画には存在しない《その先》が自然と頭の中に滾々と湧き上がってきたのだ。「きっと二人はいつか再会できるのだろう」というハッピーエンドが(それは経済的云々とは全く次元の異なるものである)。
呉頴の不自由な目は最大限、映画的プロットとして使用されている。主人公(井筒監督ちょい似)や同僚(そして監督も)はとことん策を弄して、呉頴を騙す。コレがまたいちいち面白くてかなり笑ってしまった。彼女の不自由な目は作品を押し進めるエンジンである。そして、彼女の障害は生身に欠け、無機質で、こんないい方は何だが、映画的道具に過ぎない。
でも、この映画オレは全然許せる。何故ならば、呉頴の目はこの作品の主題ではないからだ。彼女にとって本当に辛いことは目が見えない現状などではなく、誰も自分の傍にいないことではないだろうか。誰も自分を想ってくれる人がいなかったから、自暴自棄に陥っていたのだ。彼女がもし仮にあの継母の家の時に目が見えるようになっても殆ど幸せを感じないと思う。(目の見える我々からすれば、家がどんな状態であろうとも視力の回復を最優先するのだろうけど、彼女は視力と同じぐらい《誰か》を必要としていたはずだ。逆にいえば。)
*ついでにいえば「騙すこと」もまた主題ではないだろう。仮に「呉頴が嘘に気付かず、最後に真相を告げられていた」というシチュエーションになったとしても、彼女は怒ったり悲しんだりしないと思う(もちろん真意に気付けばの話だが)。
*最後の「父親のふり」をした手紙でドバッと伝わってきたが、もう少し主人公が呉頴を思う気持ちの描写を分散させても良かったかなと。種々の「だまし」のテクニックを見せていくことが同時に想いを語っていることでもあるのだけれど、後もう気持ち一息。それと、呉頴の言う「みんな」という概念がよく分らない。一堂に会するシーンはなかったし、個々のマッサージのときも会話は殆どなかったはずだ(呉頴が「顧客」が何を意味をするのか把握出来ていたということなんだろうけど、それでも全体として「みんな」と一括りにするのはちょっと引っかかる)。そこらへんがちょっと塩味足らんという感じだったが、全体的に見れば問題ないほどのハイレベルな作品であった。
彼女は一番欲しかったものを手に入れた。そこにこの作品の凡てがある。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (4 人) | [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。