[コメント] アバウト・シュミット(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「人は死ねばゴミになる」−これは、かつて検事総長であった伊藤栄樹が、自らの癌との闘病生活の中で綴ったエッセイのタイトルで、高校時代に読んだ。死、意識がなくなる、さすれば人間は塵や埃のような物質としての存在しか意味を成さない、と。つまり、この世界にとって「用済み」、すなわちゴミというわけだ。
いやいや、そういう視座から命を見れば、生きているうちにも「用済み」、ゴミになりえるわけだ。
そこで、本作の主人公、シュミット。退職した会社の元部下からは疎まれ、最愛の娘は見向きもしない、一緒にいる理由さえ見いだせなくなった妻にはイライラさせられるばかり、それほど多くの友人に恵まれているわけでもない、家にいてもリラックスすることもできずシャツにネクタイ姿でTVを眺める毎日。自分はすっかりこの世界から「用済み」になったのだ。「生ゴミ」になったのだ。
そして彼は思う。この生ゴミにいたる過程すら、用済みにいたる過程においてすら、自分の理想としてきた過程でなかったことに。そして、怒る。行き場のない怒り、あたたかな朝の陽射しが残酷に思える孤独。決して「生ゴミ」になったことだけに怒りや哀しみを抱いているのではなく、自分のこれまでの人生すら「生ゴミ」のように無意味な、存在価値のないものであると心の奥底で気づいているからだ。
しかし、それをどこかで打ち消したい、否定したい、そういう気持ちからの「チャイルド・リーチ」への寄付だったと思う。誰かとの自分の人生の新たな接点、そこに生きている意味を見いだそうと。しかし、彼の心根は死にかけだ。だから、およそ初めて手紙を送る相手に対しては書かないだろう内容までぶちまける。たとえ、少年から返事が来なくても、書き続ける。
そして妻の死。彼が安い棺を選び、運ぶ車ですら自分の車にしたところに、彼の生きること、そのものへの絶望感がわかる。打ちひしがれる絶望ではなくて、受け止めざるを得ないゆるやかな諦めにも似た絶望。死んでしまった妻は、もうゴミなのだ。
そして、シュミットは旅に出る。この絶望を乗り越えられるのは、そう、気に入らない婚約者との娘の結婚を阻止すること。シュミットは今度はそれで自分の「今、生きてる意味」を得ようとする。旅の中で、自分が用済みになったこと、自分がかつて生まれ育った生家ですら用済みになったこと、自分の人生はことごとく惨めであったことを再確認しながら、彼は娘のいるデトロイトへ。
結局は、思惑ははずれ、娘は結婚する。せっかくの気持ちをぶちまけるチャンスだったスピーチでも、これまでの人生と同じく「腑抜け」であった。つくづく自分の人生には意味がない…
帰宅して、届いていたのは少年の世話をするシスターからの手紙。そして少年の絵。彼は涙する…自分の人生には意味があったと…
いや!ちょっと待った!ひねくれ者のわたしだからかもしれないが、彼の涙にはもっともっと複雑な気持ちがあったと想像するに難くない。泣きながら、少しどうしようもない笑みをこぼす、あのシュミットの表情。
たとい少年が文盲であったとしても、シスターが代筆できるはずだ。自分がどれほど長い手紙を綴ったとしても、自分のことばはもしかして何も届いていないのかもしれない。自分が送った金で、少年としては随分生活が楽になるはずだ、しかし、彼が遣してきたものは「くだらない絵」だ…。
そんなことはないかもしれない、彼は純粋に喜んだだけなのかもしれない。しかし、そんなことはたいしたことではない。なぜなら、少なくとも彼にとってこの少年の絵は「意味」があったのだから。彼は、そこに意味を見つけたのだから。
話は少し変わるが、わたしが実際に高校で教鞭を取ってみて、一番気になったのが、最近の生徒はすぐに「意味がわからない」だの「意味ない」だのと言ってしまうところだ。当然なのだ。すべてのものには初めから意味なんてない。そこに意味を見つけるのは人間の高級な仕事なのだから。
だから、シュミットがこの少年の絵の中に何か意味を見つけた、その絵がこの世界に存在するその意味を、彼自身の人生においての意味を見つけたことが、とても嬉しかった。彼は自分が「生ゴミ」ではないことに気づいたのだから、自分が死んでも「ゴミ」にはならないことに気づいたのだから。
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