コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 日本沈没(2006/日)

「日本沈没」という人間の力では到底太刀打ち出来ない事象に対し、主人公達があくまでも生き抜かんと抗い、葛藤し、足掻く姿が決定的に欠けている。73年版にはそれがあった。
すやすや

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ローレライ』に続きこの映画を観て、樋口真嗣は人間ドラマを描くのがヘタなのではなく、描くことに興味がない、もしくは優先度が低いのだ、ということを確信した。

ローレライ』の鑑賞後、福井晴敏との対談などを読んでみたのだが、樋口真嗣が『ローレライ』にかけた想いというのは尋常ではなく、作品にこめたであろう魂の量を計れば十分すぎるものだと感じた。しかしながら、観客として『ローレライ』を観てみると、明らかに原作にあったテーマともいえるべき"想い"や"魂"はスポイルされ、映画としてはそれなりに楽しめるもののスカスカ感のある後に残らない映画となっている。

ローレライ』は時間の都合でエピソードを切ってしまった事で、必然的にストーリーが薄まってしまったのが原因かと思っていたのだが、今回この『日本沈没』を鑑賞、そして73年版を再度DVDで鑑賞してそれは間違いだったことに気づいた。

73年版『日本沈没』には"魂"や"想い"がビンビン伝わる傑作だ。 そして06年版『日本沈没』は自己犠牲による浪花節ストーリーを入れたにもかかわらず、スカスカな亜流ハリウッド映画であり、この映画からは何ら"想い"や"魂"なるものを感じることはできなかった。

樋口真嗣曰く「特撮を志したきっかけとなった作品」というくらいだから、作品にかける意気込みは処女作である『ローレライ』に勝とも劣らないものであったろう。原作のテーマさえもひっくり返しかねないオチの変更など果敢な脚本改訂をしたことからもその意気込みは伺える。

しかし、監督本人の意気込みとは裏腹にできた映画からはその"想い"は伝わってこない。

理由はなにか?

山本総理を主人公にしなかったから?日本を沈没させなかったから?安いメロドラマを持ち込んだから?アルマゲドンのパクリのような自己犠牲エピソードが入ったから?

いや、そうではない。

この作品に決定的に欠けているのは、主人公、もしくは主人公クラスのキャラクターが「日本沈没」という事象に対して、立ち向かい葛藤する描写がないことだ。

山本総理はあっさり死んでしまうので問題外といえば問題外なのだが、あの名セリフ「何もせんほうがええ」のシーンにわかりやすい違いがある。

2006年版はどっかの待合室みたいな場所で環境大臣に自らそれを伝える形で発せられる。このシーンの総理にはなんら気持ち的な葛藤はなく、「こんな話があるんだけどね。キミはどう思う?」程度の気持ちしかこもってない。 対して73年版は、これからの日本をどうすべきかをいろいろ考えあぐねいた末に箱根の老人に意外な形で聞かされる。ここでの山本総理の葛藤ぶりは丹波哲郎の大の男が涙ぐむ演技とあいまって、見る者を同じ葛藤へと引きずり込む。日本国民を助けるために話を聞きに来たというのに「何もするな」とはどういうこと?それも有識者が寝ずにぶっ倒れるまでに考えたあげくの結論がそれなのか? この映画のテーマとそこで提示される問題点を端的にズバッと切り込むこのシーンは橋本忍の立体的な脚本構造の真骨頂ともいえる秀逸な名シーンだ。

73年版の田所博士は「日本沈没」が起こるのか否か?それを発表すべきだったのか否か?その時、日本人はどうすればいいのか?ということに徹底的に向き合っている。 日本海溝の泥流を見た瞬間から、総理をくどき、深海潜水艇を密かにチャーターし徹底的に原因を調べ上げるなど、立ち向かう姿勢がひしひしと感じる。 対して2006年度版はいきなりアメリカの学者に「日本は沈没します」と言われて、それを追試しているだけにすぎなく、それも自分の研究の予算の範囲でやっているにすぎない。総理を目の前にして役人の胸ぐらをつかむシーンがあるが、この程度の上っ面な描写では、トヨエツがどんなにがんばっても、脚本のロジカルな部分が決定的に弱いため小林版田所博士にに遠く及ばない。 結果的に沈没から救う名案を考え出したという点では、73年版を実績的には上回っているが、行動したのは田所ではなく元ヨメさんの環境大臣のほうだ。つーか、この関係はアビスのパクリ?これも設定としてとても安くて大嫌いだ…。

さて本作のキャラクター造形、最大の問題点、小野寺。 別に特攻すること自体はかまわない。安いお涙頂戴だが、それもアリだろう。 しかし、この作品での小野寺は最後の特攻という一点においてしか「日本沈没」に立ち向かっている行動がない。これ以前の行動といえば、東に阿部玲子がいればいって慰めてやり、西に阿部玲子がいれば一緒に日本を出ようといい、とあっちへウロウロ、こっちへウロウロするばかりで何もしていない。一応"しんかい"は操艇しているので現場には立ち会っているといえば立ち会っているが、D計画が発動した時点でお払い箱になるのであまり貢献もしていない。 やっていることといえば、阿部玲子に会いに行くだけ…。しかも、その彼女に「抱いて」言われたら、拒否する始末。 特攻というのは、出来る限りやれることの全てを尽くし、それ以外に方法がない場合にいたしかたなくその手段をとるが故に感情を揺さぶるものだと思うのだが、この小野寺はそれまでにやるべき事をやっていない。なんら、「日本沈没」に立ち向かっていない。これならばまだ「息子にふるさとの海を見せてやりたいんだ」という同僚のほうがよっぽど「日本沈没」に対して向き合っていると言えよう。

さて、具体的な構造的欠陥をここまで述べてきたが、じゃあなぜこうなってしまったのか?

これは監督の作品、および脚本に対する優先度の付け方の問題だと思われる。 樋口真嗣は私が想像するに、映像先行型の作り方をしているように思われる。 言い方を変えるならば、見せ場重視型といえばわかりやすいか。 つまり、お話しを考えるときにまず「絵ありき」なのだ。まずCGIなどの見せ場となるシーンを始めに配置する。その後に、この見せ場をつなぐようにキャラクターのエピソードを埋めていく。そしてそれぞれが整合性がとれるようにセリフの調整をしていく。 たぶんこのような手法で脚本をつくったんじゃないかと思われる。

実はこの脚本の作り方は、私がゲームのシナリオを書く場合にやる方法だ。 RPGゲームなどの場合、まずゲームとしてある程度の時間的なタイミングでボスを配置する必要がある。ボスはストーリーのキーとなってくるので当然ボス戦がゲームシナリオ上では見せ場となる。 この作り方をすると、必ず問題になってくるのがキャラクターの基本行動原理に一貫性がなくなることだ。キャラクターの行動原理からお話しを紡いでいないのだから当然と言えば当然の結果なのだが、これは構造的な欠陥をはらんでいて我ながらいつも歯がゆい思いをしている仕事の部分だ。

樋口真嗣は特技監督出身であり、エヴァンゲリオンの絵コンテを切っていたりとあくまで映像優先の監督なのだろう。映像的に見せたいものがあればそれでよいと思っているのかもしれない。最新のCG技術で「日本沈没」を描ければそれでいいのかもしれない。

しかしだ。それじゃ73年版には遠く及ばない。 73年版の特撮はヘボでも、作品は傑作だ。

「国土を失った日本人はどうするべきなのか?」「国土が失われる時、自分にできることは何なのか?」「果たして逃げおうせた外国で我々日本人はやっていけるのか?太平洋戦争の二の舞にはならないだろうか?」その時描くべきは失われる国土ではなく、悩み、それに抗おうとする日本人だ。 日本人という"人間"を描かなくしては『日本沈没』とはいえないのだ。

樋口真嗣がこれから必要なのは「人間を撮る技術」ではなく、「撮るべきは人間である」という姿勢だと思う。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (6 人)おーい粗茶[*] ヒエロ[*] chilidog[*] 荒馬大介[*] アルシュ[*] sawa:38[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。